12月23日大和伊勢遠征・最終日編(三重県)2009年01月23日 02時17分42秒

津城の丑寅櫓跡(手前)と妙な位置にある模擬櫓(奥)
遠征最終日は三重県の中心である津市の津城へと向った。津城は安濃川と岩田川に挟まれた三角州のような場所に細野藤光によって築かれた平城で、後に藤堂高虎によって近世城郭として整備された場所である。

城の大半は市街地に埋もれてしまっており、やっと辿り着いた「お城西公園」も縄張り図と比べてみると水堀跡が丘になっているなど全く城と関係ない状態になっていた。「お城西公園」を抜けて車道を越えると水堀に囲まれた「お城公園」があり、ここだけが城の西の丸と本丸の跡の遺構を良く残していた。

虎口跡より西の丸の郭内に入ると内部は庭園のようになっており、城とは直接関係無いものの藩校の正門が移築されていて異彩を放っていた。今は庭園となっている西の丸だが、当時は番所や倉庫があった場所だという。

西の丸から本丸へ向うと、かつての西の丸と本丸の境界だった堀は埋め立てられ、さらに土塁も無くなって完全に西の丸と本丸がくっついているような状況になっていた。それでも本丸に関しては西面を除けば、土塁は南北と東に良く残っており、もっとも城跡らしい空間となっていた。本丸の四隅は櫓台の跡でしっかり石垣が残っていて、南西部の天守台跡がやや大きめの遺構となっているが、北東部の櫓台付近の東の丸へ抜ける虎口跡の石垣の上にはなぜか模擬櫓が建っており、なぜこんなとこにこんなものを造ったのか謎でならなかった。一応、石垣の上に登れるため、模擬櫓がなんなのか見てみたが、特に案内も無く、材質は明らかにコンクリートでまるで倉庫のような感じだった。

本丸を東に抜けると西の丸と対になった東の丸があるはずだが、今は東の丸は完全に消滅しており、堀どころか郭の輪郭すらも確かめようが無くなっていた。なお、水堀が残っているのは本丸の北から西の丸の西にかけてのほんの一部のみであった。

津城跡を一通り散策した後は、かつて訪れた亀山に再訪してみることにした。再訪の理由は、よりによって「帯曲輪」の復元というマニアックさに興味を引かれたためである。

亀山に着いてからまずは旧東海道沿いに移動し、城の大手門跡へ向った。亀山城は起伏のある丘に築かれた平山城で三の丸などは市街地化しているため、大手門跡は今ではただの交差点であり、二の丸跡へ入る太鼓門跡もやはり交差点跡で特に遺構等は無かったが、太鼓門跡の説明によれば門の礎石が歩道の下に埋まっているようである。

二の丸跡は今は亀山西小学校の敷地となっているため何も無いが、この小学校の裏の部分に埋門跡があり、件の帯曲輪が復元されている。帯郭まで行くには本丸跡の公園から学校の校庭裏を迂回していかなければならないため、とりあえず前回訪問時の目玉だった多聞櫓はスルーして本丸跡へと侵入する。そして本丸跡から校庭裏を通るが、よくよく縄張りを確認してみるとこの部分は本丸と二の丸の間の沢を埋め立てて出来ているのだと、今更ながらに気が付いた。

とりあえず校庭裏に到着すると、狭く折れ曲がった埋門跡の通路が整備され、その通路を降りた先には帯曲輪があって郭を囲むように城壁が復元されていた。ただ、この城壁は狭間が無いため外を覗くこともできず、ただの袋小路と化していた。一応、明治の頃の亀山城の写真の城壁に狭間が無かったため、帯曲輪の城壁にも狭間を作らなかったという理由だそうだが、さすがに全てに狭間が無い近世城郭というのも想像しがたいため、どこか納得いかないものがある。

帯曲輪の散策が終わった後は、せっかくなので亀山城の多聞櫓を見に向ったのだが、困ったことに西側の石垣が近年の地震で崩れて立ち入り禁止になっており、前回よりも見所が狭くなっていてガッカリすることになった。特に変わり映えの無い本丸跡を散策した後は西出丸跡を通って丘の下の西の丸へと降りたが、西の丸は亀山中学校と住宅地になっており、門跡なども特に遺構などは無く、強いて言えば西の丸の東側にある水堀が良く残っているくらいが見所と言えた。

亀山城を散策した後はまだ日が沈むには早かったが、今日中に家に戻らなければならないため、そのまま名古屋を経由して神奈川への帰途に着いた。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://kojoh.asablo.jp/blog/2009/01/23/4075890/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。