12月20日大和伊勢遠征・初日編(三重県桑名市)2009年01月04日 00時19分18秒

七里の渡しと蟠龍櫓
12月最後の旅は三重県と奈良県へと行ってきました。初日に三重県入りをしてまず最初に向ったのが桑名で、まず昼食に蛤を食べ、その後に桑名城跡へと向った。冬の一日は短いもので、散策を開始したのが15時頃だったが、あっという間に夕暮れになってしまった。

桑名城を府城とする桑名藩は意外にも奥州とも係わりがあり、幕末の桑名藩主の松平定敬は桑名藩兵を率いて幕軍として奥州を転戦しており、奥羽越の列藩以外では数少ない幕府側の藩だった。桑名藩が官軍によって陥落した後も定敬は戦い続け、最終的には函館まで至り、国家老の説得でやっと官軍へ投降したという。

桑名城はそのほとんどが市街地に埋もれてしまったが、水堀の一部が残っており、外構えの堀も護岸整備されていたものの住吉水門まで水路が続いており、堀の名残をよく残していた。住吉水門まで堀沿いに散策した後は、七里の渡しへと向った。ここは熱田宿から出た渡し舟が桑名宿に入るための船着場で、熱海宿から桑名宿まで距離が七里あるため七里の渡しと呼ばれた。「渡し」と言っても今は水門の内側にある水場で、伊勢国に入った旅人が最初に潜ることになる伊勢の鳥居が目印として建っている。この渡しの近くには東海道五十三次にも書かれた桑名城の蟠龍櫓が外観復元されてあるが、本来なら川に突出るようにあった櫓が今は堤防の内側にあるため、なんともいえない奇妙な風景となっていた。

櫓の周囲は「三の丸公園」となっているが、正確には「三の丸」と呼ばれる部分は「九華公園」の駐車場の辺りのみであり、三の丸跡周囲の堀が埋められて「吉之丸コミュニティーパーク」となり、下屋敷のあった外郭の一部が「三の丸公園」となっている。三の丸跡の駐車場の一角には本多忠勝の銅像があり、これがなかなか大きくて迫力があった。

親子連れや犬を連れた市民で賑わう三の丸公園と吉之丸コミュニティーパークを抜けて、車道を渡り九華公園へと入ると、そこには水堀をよく残した三の丸、二の丸、本丸の跡が広がっていたが、古い城の絵図と比べると郭の形が微妙に違うため、廃城後の開発で大きく変わってしまったのがよく判った。特に朝日丸跡に関しては中央部分が消滅して水堀になっており、なんとも無残であった。

内堀の半分が埋まり朝日丸跡と三の丸跡と陸続きとなった本丸跡に入ると、そこは半分が鎮国守国神社の境内となっており、遺構としては土塁と櫓台跡がよく残っていた。辰巳櫓と神戸櫓の櫓台は今はただの土塁のようになっていたが、神社の裏には天守台跡があり、こちらには模擬石垣と慰霊碑が建っていた。

本丸跡の散策を終えた頃には既に日が沈んでおり、再び三の丸公園へと戻ると蟠龍櫓のライトアップが始まっていたので、櫓の夜景を撮った後は本日の宿へと向かい初日の旅を終えた。

12月21日大和伊勢遠征・二日目編(奈良県)2009年01月17日 04時10分27秒

信貴山の山頂手前の郭跡にある石碑
二日目は奈良県の中部方面へ出かけ、高取城に登るつもりだったのだが・・・うっかり電車の中で居眠りしたばっかりに、気づいた時には奈良県を通り越して大阪にまで行ってしまうところだった。さすがに戻るには時間が勿体無いので、近くの信貴山城へと予定を変更して登ることにして、信貴山目指して移動した。

信貴山城は木沢長政に築かれた山城だが、後に松永久秀が改修して居城とし、松永久秀が織田信長に攻められて茶碗と共に散った(一説には火薬による爆死という)場所として有名な場所でもある。

信貴山中腹には朝護孫子寺があり、寺とは言うものの数多くの寺社仏閣を山の斜面に有した小さな街のようになっており、訪れるのも見るのも初めてだったので少々感動してしまった。狭い回廊の入り組んだ境内を通り、とりあえず山頂へ登る場所を探して彷徨うと、稲荷神社のように鳥居が乱立する階段から山頂へ登れることが判ったので、さっそくそこから登城を開始した。

信貴山の山頂には空鉢堂があるため、中腹の朝護孫子寺から登られる参拝者も少なくないらしく、参道は予想以上に多くの人が上り下りをしていて少々驚いた。そんな参道を登っていくと信貴山の出城部分にあたる雌嶽と空鉢堂がある雄嶽の中間にある尾根に出たが、さすがに雌嶽の方は獣道で木々しかないため、参拝者に怪しまれるのも厄介なので大人しく参道に沿って雄嶽のほうに登ることにした。尾根まで登った所までは城の遺構かどうか怪しい箇所ばかりだったが、山頂に近づくといかにもな郭跡や土塁、そして虎口跡などが確認でき、やっと城跡の実感が湧いてきた。

山頂手前の参道から外れた場所には信貴山城の石碑と説明があり、山頂のかつて天守があったという場所は今は御堂になっていた。山頂はさほど広くは無いが、近代に造られた懸け造りのように飛び出た部分があり、そこからの眺めはなかなかの絶景だった。しかし、ここで急に雨が降ってきたために散策も下山も出来なくなり、御堂前の四阿のような場所でしばらく休憩する羽目になってしまった。

雨が止んだ後は参道を大きく外れて、山の北側から下山を開始したが、こちらには多くの腰郭が残っており、さらに中腹まで降りると大きな郭が森の中に広がっていた。大きな郭は麓に向って階段状に延びており、切岸や土塁の跡がハッキリ確認できた。縄張り図によれば松永屋敷があった場所らしく、ここで松永久秀が茶をすすっていたと考えると感慨深いものがあり、森の中に埋もれているのは勿体無い気もする。

信貴山北側は放射状に延びる山裾に階段状の郭が連なっており、谷の向こうにも郭が見えるなどなかなかの圧巻だったが、谷は藪に覆われている箇所が多く、松永屋敷以外は満足な散策ができなかった。特に石垣のある箇所まで辿り着けなかったのが悔やまれる。

車道サイズの山道が貫通した郭を抜けて下山していくとアスファルトの車道に出たので、朝護孫子寺へ戻ろうと移動したが、この道中には廃墟となった山中の民家が所々にあり、少々不気味な雰囲気が漂っていた。朝護孫子寺の境内に戻った後は、まだ日が暮れるまで時間があったため信貴山を下山して近くの西宮城へと向った。

西宮城は筒井氏家臣時代の島左近の居城だった場所で、小さな丘陵に築かれた城だが、下垣内城と隣接した妙な構造になっており、今は中央公園となっている。丘陵全体を城と見た場合は下垣内城も西宮城の郭と見なす事ができるが、丘陵にはさらに方形の古墳までもがあり、当時はどんな縄張りの城だったのか考えさせられる立地だった。

西宮城の部分に登ると、そこは遊具などが設置された公園となっていたが、本丸と二の丸の間には堀切の名残がしっかり確認できた。さらに本丸の奥のフェンスの先は鋭い切岸になっており、雑木林の中に腰郭があることも確認できた。西宮城より北の谷の先の丘陵部分が下垣内城で、驚くことに城跡全体が盛り土で覆われており、遺構は全て地下に埋没してただの緩やかな丘になっていたため、散策してもこれといったものを見つけることができなかった。

平群中央公園を散策しているとついに日が沈んでしまったため、この日はここで切り上げてホテルへと戻った。

12月22日大和伊勢遠征・三日目編(奈良県)2009年01月18日 20時44分16秒

大和郡山城の追手門
三日目は高取城へリベンジするか迷ったが、今回は奈良県北部の大和郡山城へと向うことにした。郡山城は筒井順慶によって築かれた城で、豊臣秀吉が天下を獲った後は秀吉の弟の秀長が郡山城に入り、この時に近世城郭として整備され、その後も江戸時代にかけて大阪城に次ぐ要城として重視された場所である。

大和郡山に着いてまず始めに向ったのが、東の外構の堀沿いに造られた外堀緑地公園で、水堀の面影を良く残した近代と近世が同居したような公園だった。公園の北の出口付近の常念寺には何やら土塁のようなものがあったが、遺構としては紹介されていなかったので謎である。公園を北門より抜けると堀が見えなくなるが、堀跡沿いに進むとやがて民家の横に残る水路に辿り着いた。意外にも街中には外堀の名残が水路や溜池としてよく残っており、さすがに外構の周りを一周するわけにはいかないので北の水堀跡で切り上げて今度は城の中枢部へと向った。

市街地に埋もれた五軒屋敷の郭跡を主郭目指して進むと、線路の踏み切り付近に桜御門の石垣を見つけた。本来であればこの石垣の間を通って五軒屋敷に入るのだが、今は石垣が芝生の中のオブジェと化しており、なかなか寂しいものがある。とりあえず線路を南に迂回し、鉄門跡の踏み切りから侵入するが、この部分には鉄門跡の石垣が良く残っており、いかにも大手口といった枡形を形勢していた。枡形を抜けると左手に二の丸跡があるが、残念ながら今は郡山高校の敷地となっており、散策はできなかった。

枡形を抜けてまっすぐ陣甫郭跡を進むとやがて復元された追手門の櫓や城門が見えてきたが、内部には入れなかったので、どのレベルでの復元なのかはよく判らなかった。それでもやはり櫓と門がセットであるとなかなかの圧巻である。城門を抜けて法印郭に入ると、明治時代の図書館が移築されており、なかなか立派なものだったが、特に案内は無かったので中に入れるのかは良く判らなかった。

法印郭から毘沙門郭に入ると柳沢文庫があったが、残念ながらこの日は休館となっていた。毘沙門郭から本丸へは当時は極楽橋がかかっていたのだが、今現在は橋は無くなっており、堀から見た虎口跡がなんとも寂しいものとなっていた。本丸跡へは西端の水堀の敷居土塁から入るように今は整備されており、二の丸跡からは台所橋跡の土橋から入れるようになっている。

郡山城の本丸は今は柳沢神社となっており、神社の裏に回ると天守台に登れるようになっていた。この天守台からの眺めはさすがに絶景だったが、風が強いおかげで思いのほか寒かった。また、天守台の裏側に回ると、天守台の石垣がいろんな場所からかき集められた石で造られていることの説明があった。罰当たりなことに墓石や仏像などの石も用いられており、その中の一つには「逆さ地蔵」という名称まで付いていた。

本丸まで散策した後は新宅郭跡を抜けて南御門跡から外に出て、永慶寺へと向った。この寺の山門こそが郡山城で唯一現存する城門で、当時は南御門にあった門だという。山門を少々観察した後は南御門跡へと戻り、鷺池沿いに東進して柳門跡へと向った。柳門は前述の桜門と対を成す五軒屋敷の城門跡だが、こちらはちょうど枡形の中心が交差点の中心となっており、石垣が交差点の周囲にあってなかなか構図として撮りにくかった。

一通り郡山城を散策した後は、筒井氏が郡山城を築く前の居城である筒井城へと向かったが、筒井城は平城な上に今は大半が住宅地と化してしまっていたため、当初はまったく位置関係がつかめず周囲を迷走してしまった。やっとのことで住宅地の中の袋小路部分で周囲に畑が広がる箇所に筒井城跡の看板を見つけたが、周囲は城跡と言われなければ気づかないほど開発されてしまっていた。それでも畑の低い部分(レンコン畑か?)は水に浸かっており、うっすらながらも郭と堀の跡が確認できたのは幸いだった。

また、畑の中の道を西の住宅地に向けて進むと、住宅地と畑の境界部分に石碑も発見することができたが、この石碑から駅方面に続く住宅地の通路も人が一人通るのがやっとで、なかなか訪城初心者には難易度の高い探し物だった。それでも北の堀跡などを散策した限りでは、城はかなりの広さを持っており、当時の威容が埋もれてしまっているのが非常に悔やまれる。

筒井城の散策には予想以上に時間を消費してしまい、気づいた頃には日が沈んでしまったため、この日はここで切り上げてホテルへと戻った。

12月23日大和伊勢遠征・最終日編(三重県)2009年01月23日 02時17分42秒

津城の丑寅櫓跡(手前)と妙な位置にある模擬櫓(奥)
遠征最終日は三重県の中心である津市の津城へと向った。津城は安濃川と岩田川に挟まれた三角州のような場所に細野藤光によって築かれた平城で、後に藤堂高虎によって近世城郭として整備された場所である。

城の大半は市街地に埋もれてしまっており、やっと辿り着いた「お城西公園」も縄張り図と比べてみると水堀跡が丘になっているなど全く城と関係ない状態になっていた。「お城西公園」を抜けて車道を越えると水堀に囲まれた「お城公園」があり、ここだけが城の西の丸と本丸の跡の遺構を良く残していた。

虎口跡より西の丸の郭内に入ると内部は庭園のようになっており、城とは直接関係無いものの藩校の正門が移築されていて異彩を放っていた。今は庭園となっている西の丸だが、当時は番所や倉庫があった場所だという。

西の丸から本丸へ向うと、かつての西の丸と本丸の境界だった堀は埋め立てられ、さらに土塁も無くなって完全に西の丸と本丸がくっついているような状況になっていた。それでも本丸に関しては西面を除けば、土塁は南北と東に良く残っており、もっとも城跡らしい空間となっていた。本丸の四隅は櫓台の跡でしっかり石垣が残っていて、南西部の天守台跡がやや大きめの遺構となっているが、北東部の櫓台付近の東の丸へ抜ける虎口跡の石垣の上にはなぜか模擬櫓が建っており、なぜこんなとこにこんなものを造ったのか謎でならなかった。一応、石垣の上に登れるため、模擬櫓がなんなのか見てみたが、特に案内も無く、材質は明らかにコンクリートでまるで倉庫のような感じだった。

本丸を東に抜けると西の丸と対になった東の丸があるはずだが、今は東の丸は完全に消滅しており、堀どころか郭の輪郭すらも確かめようが無くなっていた。なお、水堀が残っているのは本丸の北から西の丸の西にかけてのほんの一部のみであった。

津城跡を一通り散策した後は、かつて訪れた亀山に再訪してみることにした。再訪の理由は、よりによって「帯曲輪」の復元というマニアックさに興味を引かれたためである。

亀山に着いてからまずは旧東海道沿いに移動し、城の大手門跡へ向った。亀山城は起伏のある丘に築かれた平山城で三の丸などは市街地化しているため、大手門跡は今ではただの交差点であり、二の丸跡へ入る太鼓門跡もやはり交差点跡で特に遺構等は無かったが、太鼓門跡の説明によれば門の礎石が歩道の下に埋まっているようである。

二の丸跡は今は亀山西小学校の敷地となっているため何も無いが、この小学校の裏の部分に埋門跡があり、件の帯曲輪が復元されている。帯郭まで行くには本丸跡の公園から学校の校庭裏を迂回していかなければならないため、とりあえず前回訪問時の目玉だった多聞櫓はスルーして本丸跡へと侵入する。そして本丸跡から校庭裏を通るが、よくよく縄張りを確認してみるとこの部分は本丸と二の丸の間の沢を埋め立てて出来ているのだと、今更ながらに気が付いた。

とりあえず校庭裏に到着すると、狭く折れ曲がった埋門跡の通路が整備され、その通路を降りた先には帯曲輪があって郭を囲むように城壁が復元されていた。ただ、この城壁は狭間が無いため外を覗くこともできず、ただの袋小路と化していた。一応、明治の頃の亀山城の写真の城壁に狭間が無かったため、帯曲輪の城壁にも狭間を作らなかったという理由だそうだが、さすがに全てに狭間が無い近世城郭というのも想像しがたいため、どこか納得いかないものがある。

帯曲輪の散策が終わった後は、せっかくなので亀山城の多聞櫓を見に向ったのだが、困ったことに西側の石垣が近年の地震で崩れて立ち入り禁止になっており、前回よりも見所が狭くなっていてガッカリすることになった。特に変わり映えの無い本丸跡を散策した後は西出丸跡を通って丘の下の西の丸へと降りたが、西の丸は亀山中学校と住宅地になっており、門跡なども特に遺構などは無く、強いて言えば西の丸の東側にある水堀が良く残っているくらいが見所と言えた。

亀山城を散策した後はまだ日が沈むには早かったが、今日中に家に戻らなければならないため、そのまま名古屋を経由して神奈川への帰途に着いた。

1月10日新年初遠征・初日編(群馬県高崎市)2009年01月27日 21時21分18秒

高崎城乾櫓(石垣は模擬。石垣より上が移築部分。)
■新年初遠征

新年最初の遠征は上野国へと行ってきた。水上方面の上牧温泉に行くのが目的だったが、途中でかつての(カメラが壊れた)因縁の地の高崎城へと立ち寄った。

【高崎城跡訪城】

高崎城跡は大部分が市街地化し、三の丸の土塁と外堀の大部分が残っているおかげで城の輪郭が確認できるが、三の丸より内側には官公庁の建物が乱立し、どこが本丸跡で二の丸跡かさえも判らない状態だった。

三の丸東端の大手口付近には本丸隅櫓(乾櫓)と三の丸東門が移築されているが、櫓は元々本丸の土塁の上にあったもので、模擬石垣の上に櫓がある今の風景は明らかに一般人に誤解を与えそうである。

三の丸の遺構を見た後はさっぱり面影の無くなった二の丸跡、本丸跡を通って西郭跡へ向い、高崎城の前身の旧和田城の櫓台跡を探したが、こちらは発見できなかった。

全体的に非常に勿体無く残念な城ではあるが、市街地化で完全に消滅した城郭も多いので三の丸の土塁と堀が残っているだけでも幸運だったのかもしれない。