3月23日御伊勢参り・外宮編(三重県伊勢市)2014年04月09日 01時24分38秒

道中寄道しながら今回の旅の目的地の伊勢へと辿り着いたが、20年に一度の式年遷宮が行われた影響なのか、駅から外宮までの参道も昔来た時より新しくなっており、まるで初めて訪れたような不思議な気分だった。昼食がまだだったため、参道で見かけた「巾着伊勢うどん」と「ぱんじゅう」を食べてから外宮へと向かったが、前者は見た目が面白く、後者はクリーム味が美味だったのでなかなか良かった。


旧御正殿
外宮の御正殿は大鳥居を潜って参道を道なりに進んで行くと右手に見えてくるが、まず目にするのが古い方の御正殿で、昔訪れた時は自分こちらに参拝したはずである。古いと言っても威厳のある佇まいをしており、いずれこの場所が空白地になるのが信じられないほどである。


新御正殿
そして隣にあるのが新しい御正殿で、まさに新築の木材が眩しい社がそこにあった。一般人は鳥居を潜ったすぐ先の拝殿前までしか入れないが、奥の方では何やら儀式?のようなものをやっているようだった。


亀石
御正殿から別宮の方に行く途中の小川に架かっている石橋は亀石と呼ばれており、画像でも判るとおり確かに亀のように見えるのがなんとも面白い。


多賀宮
川の先には風宮、土宮があり、そこから丘の上に登ると多賀宮がある。こちらも式年遷宮が行われたようで、社は新しくなっており、隣が空き地になっていた。昔、参拝した時はこの空き地の方にあった社に参拝したはずだが、記憶が曖昧で思い出せない。ちなみに同じ文字だが多賀神社とは関係無く、元々は高い場所にあるから「高宮」と呼ばれ、それが多賀宮に変化したのだという。

2014年の初詣【江島神社】(神奈川県藤沢市)2014年01月27日 02時20分34秒

もう1月もあとわずかで終わりを迎えるが、2013年の晩秋以降ずっと多忙で、いつの間にか年が明けてて気付いたら今に至るという有様である。土曜日も終電近くまで働いていたので日曜日に出かける気力が沸かなかったが、2014年の初詣をしないまま2月を迎えるのは嫌だったため、午後に気力を振り絞って出かけて来た。

今年は江ノ島にある日本三大弁天で有名な江島神社へと行ってきた。前年末はPCや周辺機器の故障などで出費がかさんだ上に、休みを潰して働いている割には実入りが増えていないという「財」の悩みがあったため、弁財天にちなんだここを選んだわけである。

江島神社辺津宮
江ノ島に渡った所でさっそく雨に襲われるという縁起でもない状況だったが、神社の門前町は狭い路地に人が一杯居てなかなかの賑わいだった。画像は門前町の坂から瑞心門を潜って階段を登った先にある江島神社の辺津宮で、3つある社殿のうちの下宮である。


虹
雨と言っても通り雨でしばらくすると止んだが、その直後に久々にハッキリとした二重の虹を見ることが出来た。おかげで雨でも案外縁起が良かったかもしれないと思えて気持ちがかなり楽になった。


江ノ島から見た富士山
島の中の路地から見える夕暮れの富士山もなかなか印象的な光景で、今日は来て良かったと心から感じた。辺津宮の後は、中津宮、そして島の西の端にある奥津宮と順番に参拝したが画像は割愛する。


江ノ島の灯台
奥津宮での参拝を終えた頃には日が沈んで暗くなりかけており、島の中心に聳える展望灯台ではライトアップが始まっていた。今回は時間が無かったので立ち寄れない場所も沢山あったが、次に江ノ島に来るときは時間をかけてゆっくりと巡りたいと思える場所だった。

10月14日三連休道南函館江差の旅・ラスト【夷王山など】(北海道上ノ国町)2013年10月26日 22時28分08秒

勝山館搦手口から出てそのまま山側へ進むと墓所の跡となるが、遺跡の図を見る限りでは勝山館の背後はあらゆる時代の墓の跡があり、霊的加護をもって城の背後を守るような縄張りの考えで勝山館が築かれたのではとも思える。


勝山館ガイダンス施設
墓所付近からガイダンス施設行きの看板に従って小道を登ると勝山館ガイダンス施設へと辿り着いた。内部はいわゆる資料館で、この周辺の墓所の発掘調査結果や勝山館関連の展示があり、勝山館の全体像のジオラマはなかなか参考になった。あと、発掘調査結果から当時の勝山館内部でアイヌが生活していたのが判明したとあり、もしかすると武田信広の家臣の中にも普通にアイヌが居たのではないかというのはなかなか興味深い内容だった。


勝山館から見た夷王山
勝山館跡から沢を挟んで隣には夷王山が聳えており、館跡散策中もふと山頂の鳥居が視界に入るため気になっていたが、実際にここは城の守護神的な特別な山で、武田信広の没後に霊を祀った場所であるという。"夷王"というのは要するに蝦夷地(現在の北海道)の主という意味で、後に蝦夷地唯一の藩である松前藩の祖となった武田信広の事を指しているのだという。


夷王山からの景色
夷王山は草地と低木に覆われているため視界が良好で、山頂からの景色は360度パノラマの絶景であった。画像だと判りづらいが、中心付近の森の中に勝山館跡がある。画像奥に見えるのが上ノ国の街。なお、画面外にはなるが、前日に訪れた江差の街や鴎島もここからハッキリ見ることができた。


夷王山の頂の神社
山頂の夷王山神社は風雪避けの分厚い土塁で囲まれており、まるで穴の中に埋まっているような感じだった。特に説明板などは無かったが武田信広を祀っているそうなので氏神の八幡神社と同じ様式だろうと思う。


上之國八幡神社
その八幡神社(上ノ国八幡宮)は現在は館跡の麓に鎮座しており、明治の頃にここへと移されたとある。画像に見える拝殿のさらに奥にある本殿は1699年に造られたことが判明しており、文化財にも指定されている。つまり、勝山館跡が廃城になった後も神社は館跡に祭られており、江戸時代の中頃には本殿が建て替えられたのだろう。その後、明治になって現在地に移されて新たに拝殿が建てられたということになる。


檜山奉行所跡
なお、遺跡図を見ると神社脇の丘の上に檜山奉行所があったことがわかる。奉行所は松前藩の役所で、檜山西郡の行政の中心だったようだが、江戸時代の中頃に江差が発展したため、ここから江差へと奉行所が移されている。丘の上には神社裏から登れそうだったが、あまり収穫は無さそうだったので確認はしていない。

8月12日夏季山梨遠征・その1【新府城】(山梨県韮崎市)2013年08月14日 23時55分25秒

夏季休暇を取ってお盆前に何処かに出かけたいと思っていたものの、連日の猛暑で出かける気力が薄れ、繁忙期により直前の宿の確保が難しく再三スケジュール修正をした挙句に甲斐国へと出かけることになった。今回は正直特に深い理由は無い衝動的散策となったが、まずは以前に一度だけ訪れたことのある新府城へ向かった。


藤武神社一の鳥居
新府駅の集落から丘を登った先に藤武神社の一の鳥居があり、この参道が新府城跡の本丸まで一直線に続いている。鳥居を潜ると一度沢状地形に降りてから再び登ることになるが、この凹が新府城の外掘跡でもある。


南大手の三日月堀
神社の参道からは登らず、南側に迂回している道から城跡の丘に登ると南大手の枡型が見えてくる。この枡型の先には武田家得意の丸馬出と三日月堀があった。堀から馬出の上まではけっこうな落差があり、改めて見ても大手口としてはなかなか見事な場所だった。


新府城二の丸
南大手よりもさらに丘の上に登ると、東西に分かれた三の丸や蔀の構えなる郭などが確認でき、いずれもしっかりと土塁が残っているおかげで構造が判り易かった。画像は二の丸の手前の長方形の土塁に囲まれた郭で、二の丸は左奥に見える空間。ちなみに二の丸は草が茫々で散策し辛かった。


新府城本丸からの景色
丘の頂上には本丸跡があり、とにかくこの郭がやたらと広かった。東の脇に神社があるが、大部分は草地であり、中心付近に水の手らしき窪地があった。本丸からの景色は必ずしも絶景ではないが、もし武田軍が篭城していたら画像の方向に織田家の軍勢が展開していただろうと考えるとなかなか興味深い。


藤武神社
藤武神社は藤井庄と武田庄の頭文字を取った神社で、新府城築城時は稲荷郭にあった守護神の稲荷神社が前身らしいがイマイチ定かではない。神社の参道は地形を無視してまっすぐ伸びているため、参道は本丸への最短ルートとなっている。


藤武神社二の鳥居と帯郭
参道を降りていくと二の鳥居のある位置に丘の中腹を横断する帯郭跡がある。ちなみに南側は大手門跡まで続いている。


新府城出構
参道を降りてから北に回りこむと、丘の麓に沿って外掘跡が広がっている。その外掘跡に突き出た出っ張りの部分が新府城独特の出構え遺構で、画像左は「東出構え」、画像右奥にかすかに見えるのが「西出構え」である。


外掘(西側の水堀)
外掘跡は水堀だったが現状ではほとんどが埋まっており、西側の一部だけ水堀が復元されていた。新府城は昔来た時とあまり変わっていないとこの時までは思っていたが、何気に搦手方面は整備されており説明石版やベンチ等もあって驚かされた。搦手方面はほとんど訪れる人が居ない感じだったので、何故こちら側が優先的に整備されていたのかは謎である。


新府城搦手枡型
搦手口には土橋と方形の枡型があり、枡型を抜けた先の郭も外郭から堀で切り離された出丸のような感じで、大手に負けず劣らず見ごたえがある構造だった。ちなみにMAPには搦手口に四脚門と載っていたが、門の正確な位置はよく判らなかった。


新府城井戸跡
最後に搦手口と二の丸の中間あたりにある井戸跡も確認に行ったが、予想以上に藪化が侵攻しており、底まで降りれるように付けられていた階段ももはや見えない状態だった。説明板には整備当初の画像が載っており、現状と比較するとただ絶句するしかない状態だった。

7月14日三連休三陸遠征・その5【船越御所】(岩手県山田町)2013年07月20日 23時49分48秒

宮古市街に戻った後は、朝来た道を戻って南下し、山田町の船越半島付け根にある船越御所跡を訪れた。船越御所は宇津峰城を落とされて奥羽を転戦していた北畠氏が落ち延びた場所で、ここにしばらく滞在した後に浪岡へと向かったとされている。

船越御所と海岸
画像は田の浜方面から海岸越しに見た船越御所跡。海岸が目と鼻の先にある丘陵の上に築かれており、震災時に津波で丘の斜面が洗われた跡が残っている。画像右側にはその時に破壊された堤防が今もそのままになっていた。


堤防から船越御所南端の神社を見る
画像は堤防の上から船越御所の南端部を見た景色。手前は堤防の手すりで、津波で折れ曲がったものだろう。丘陵南端には神社があり、社殿には全く被害が無いが、斜面の中腹あたりから下には爪跡が残っているので、当時どこまで水没したかがよく判る。


破壊された階段
神社に登る場所にはコンクリートの階段があったが、途中が破壊されて完全に消失していた。一応、登れそうだったので社殿のある場所まで登ったが、足場が無くて滑りそうだったり、棘の生えた草があったりと微妙に大変だった。


船越御所内部は・・・
社殿のある場所まで登った後は、船越御所の内部へと突入しようと思ったが、思いのほか笹藪が厚くて入れなかった。神社のある場所以外は斜面が急な上にやはり藪があり、どこから突入しても大変なため、内部に関しては今回は諦めることにした。