いわき散策・前編(福島県)2006年12月23日 23時48分17秒

上遠野城(別名は八潮見城)
今年最後の城めぐりのため福島県のいわき市へ泊りがけで行ってきた。
前回の福島遠征では白河結城氏関連の城を訪れた繋がりで、今回は小山氏関連の城が目当てである。

いわき市に到着してまず目指したのが山間部にある上遠野郷で、小山氏一族の上遠野氏のかつての本拠地である。植田から山田経由で上遠野に向かい、途中で上滝に立ち寄った。ここには上遠野氏の一族の滝氏の居城である亀岡城がある。城跡とされる場所は鮫川に面した台地になっており、現在は民家が立ち並び、あとは耕地となっている。西側は鮫川、北側は沢の部分を外堀とし、やや斜面は急になっているが、東側はちょっとした丘陵続きで現在は雑木林が茂っている。南側は台地部分がなだらかに降っているが、丘陵部分は南へと続いている。川沿いの低地から台地へと登る道が数箇所あり、2箇所ほどが不自然な沢の形の道路となって橋がかかっているので、この部分はかつての堀なのかもしれない。正直なところ資料に乏しかったので、この場所が城跡でいいのか戸惑っていたが、西端の小さな郭に祠があったので、いかにも城跡という感じが漂っていて少し確信が持てた。全体的に見て川と沢を外堀とした丘城のように見えるが、今回は立ち入っていない東側の山の部分に主郭があるのかもしれない。

亀岡城跡を散策した後は上遠野へと移動し、本日の本命である上遠野城へと向かった。上遠野城については公民館に地図やパンフレットがあると聞いていたのでさっそく公民館に向かったが、その前に公民館の西側にある神社(名称撮影ミスにより不明)へと登った。ここからは上遠野の中心が軽く見渡せるが、この神社の裏の竹やぶを抜けたさらに上には奥宮があり、どうやらここも上遠野城の物見台(出城か?)の一つだという。神社から公民館へ立ち寄って資料を確認した後、三峰神社口から登城することにした。神社の鳥居をくぐると即急斜面を登ることになり、上りきった先の尾根に三峰神社の本体と思われる小さな祠があり、この祠の裏を抜けて尾根がずっと続いている。尾根に沿って二度ほどアップダウンを繰り返した後、亀の子石と呼ばれる狼煙台跡に着いた。ここはほぼ円形に近い岩場で眺めもいいが、岩の横に何やら人工的な感じの穴が開いており、中には何も無いが何か置かれていたような形跡が感じられる。亀の子石からさらに尾根を進むと「しのぶ平」と呼ばれる頂上についた。ここには三角点があり、どうやらここらへんでは最も高い場所らしく城の物見台だという。ここから少し下りながら尾根沿いに進むと堀切が目の前に現れ、やっとハッキリとわかる人工的な防御遺構を目にすることが出来た。この堀切を越えて進むと再び堀切があり、さらに進むと切岸が現れるが、ハイキングコースの指示ではこの切岸をロープを使って荒業で乗り越えている。実際の通路は切岸を北側に迂回する武者走りと呼ばれる道だろうが、今回はとりあえず切岸をロープで登ってみた。登った所には物見台との標識があったが、すぐにこの物見台自体が中枢部分の郭の城塁の一部であることが判った。物見台を越えた先には自分の想像以上に広い空間が広がっており、内部は何段かの郭に分かれていたが、大きく外側に土塁が展開している見事な郭だった。南側だけ塁壁が無く、沢のような部分を囲む形で郭が展開しているため、一言で言うなら馬蹄のような縄張りである。高い郭と低い郭を区切る部分には野積みの石垣が積まれており、多少は崩れているがよく形を残している。中枢部分の郭群は半分以上は木々が茂っているが、東側の郭は整備されて休憩所も設置されてあるし、東南部からは遠くに海が見えるほど展望が良く、展望風景についての絵図もある。ちなみに下草を刈って整備しているのも、休憩所や説明板の設置しているのも全て地元の人達の有志で作られた「八潮見城探検隊」という方々の手によるものだという。なんとも羨ましい愛された城である。主郭部分から東に抜けようとするとそろばん橋がかかる竪堀があり、ここの堀は岩盤が見えるほど削られているため圧巻である。橋を越えてさらに東に進むと主郭の城塁の外側に出るが、ここで再び驚いた。内側からはただの土塁に見えたが、外側から見ると垂直に切り立った岸壁なのである。まさに自然の城壁である。ここからさらに東に進むと下山ルートとなるが、縄張り的にはこちらが大手口だろう。道なりに降っていくと、途中でハイキングルートには載っていない深山田口への分岐があるが、そっちへ行ってもしょうがないので普通に八幡神社へ続くルートを目指す。途中の堀底道を抜けた先に堀切と土橋があるが、ハイキングルートではこちらには向かわず塁壁に登ってUターンしている。この土橋の先は地図で確認したところどうやら上遠野中学校裏に抜けるらしい。ちなみに聞いた話ではハイキングルートが整備される前は中学校裏から登るのが普通だったという。とりあえず、平日に中学校の敷地に抜けるのは恥ずかしいので、素直にハイキングルートに沿って八幡神社へ向かうとする。ある程度進むと二重堀切りがあり、これもやや風化しているがハッキリ残っていて素晴らしい。堀切を抜けてなだらかな斜面を降りやっと八幡神社へと到着したが、さすがに既に足がフラフラになっていた。他にも見ておきたい部分があったが、さすがにキツイので本日の宿泊地であるいわき湯本へと向かうことにした。

上遠野から御斎所街道を東に進むと湯本に出る。湯本は古くは三函(さばこ)と呼ばれ、古代から温泉が有名な地だったらしく、江戸時代には浜街道唯一の温泉宿場町として栄えたそうである。湯本に着くとさっそく温泉独特の硫黄臭い匂いが漂ってきて、すぐにでも湯に入って体を休めたくなったが、まだ日が沈むまで時間があったため、南北朝時代に築かれた湯本城の跡を見に行くことにした。湯本城のあった場所は観音山と呼ばれる場所で、詳しい縄張りは判らないが、とりあえず観音山公園に登ってみることにした。湯本の温泉街から急斜面を登った先に観音山公園はあり、街中に近いとはいえかなり御老体には辛そうな場所にある公園である。その代わり頂上からの眺めは良く、湯本の街を見下ろすことができる。ちなみに山の南斜面には古滝屋旅館が伸びるように取り付いておりけっこう圧巻である。肝心の公園についてだが、上った先は展望のよい郭となっているが、奥に向かうと一段低くなり、その代わり広くなって公園の遊具などが置いてある。よく見回すと山を広く削って無理やり作られた平場であり、これでは往時の状況は判らない。ちなみに公園の東側は墓場になっていて山の谷間まで墓がびっしりと展開している様子もある意味圧巻である。歩き回ってみるとどうやら出入り口は東側にしか無いらしく、かなり不便な公園である。観音山の上にはかつて観音堂があったが、戊辰戦争で消失したというので、観音堂も戦場になったということだろう。観音堂がかつての湯本城であると考えれば戦場となるのにも納得できるが、明確な遺構などが確認できなかったのでなんとも言えないものである。

観音山公園を散策した後はホテルへと向かいさっそく温泉に入って体を休めた。後編へ続く。

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