土浦城散策(茨城県)2006年12月02日 23時55分13秒

土浦城内を通る水戸街道
東京方面へ用事が出来たので、少し?足を伸ばして茨城県の土浦まで行ってきた。もちろん目当ては土浦城である。

土浦城は霞ヶ浦に続く湿地帯に築かれた平城で、水濠によって区切られた郭と水戸街道に繋がる城下町を包括した水の要害である。だが、現在はかつての湿地帯は土浦の市街地となり、土浦城の特徴であった水濠も今は本丸と二の丸の一部の水堀を残すのみである。

遺構としては本丸と二の丸の一部の土塁と堀があるが、本丸には櫓門(大手門)と霞門(搦手門)が現存しており、他にも発掘調査と文献を元に正確に復元された東西2基の櫓と塀がある。東櫓は105円(博物館と共通の入場券)で内部を見ることができるが、西櫓は内部は公開されていない。櫓は2階建てで、2階部分まで上がれるが、平城の櫓なので眺めは良くは無い。それでも、巷に溢れる模擬櫓と違って十分味があるので登る価値はある。本丸の東側は東櫓から櫓門へかけてよく整備されていて見栄えも良くなっているが、西側は西櫓周辺の土塁がかなり風化しており、少々痛々しい。

二の丸は主に南側と東側が郭の形を残しており、南西部分に博物館、南東部分にプールがある他は公園となっている。一方で北側は車道が通り、西側は住宅地となって遺構は失われている。前述にあるとおり、二の丸には一部水堀が残っているが、護岸の影響か二の丸の外側にあった横矢懸の亜種のような波打った構造は見られなくなってしまっていた。

二の丸の東隣には外丸という郭があり、ここには外丸御殿という城の中枢施設があったが、現在は裁判所の敷地となっていて、外丸から東側は完全に市街地となって遺構は失われている。それでも、良く見ると鍵型に折れ曲がっていた城下町を通る水戸街道がそのまま道路となっていたり、城の南端の南門付近にあった馬出に沿って折れ曲がっていた街道が、そのまま車道となっていたりと、当時の面影が所々に残っていた。

市街地の中にある関東の平城は多くが開発で消滅しているだけに、派手さは全く無いが現存する櫓門や忠実に復元された櫓のある土浦城跡はなかなか貴重な存在と思える。

余談だが、土浦城の近くに小櫻という有名なラーメン店があると聞いて寄ってみたが、城を散策した後の14時半過ぎ頃に訪れたらちょうど閉店後だったため食べることが出来なかった。佐野城に行ったときも似たようなことを繰り返しており、つくづく成長してない自分を改めて認識することになってしまった・・・。

12月17日奥羽古城散策更新2006年12月18日 01時16分23秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

今回は関東地方>茨城県に先々週訪れた土浦城を追加。

他は福島県>白河市の白河城、白川城、双石館の詳細を修正。「城下」のところに公式サイト関連サイトへのリンクが増えてます。

いわき散策・前編(福島県)2006年12月23日 23時48分17秒

上遠野城(別名は八潮見城)
今年最後の城めぐりのため福島県のいわき市へ泊りがけで行ってきた。
前回の福島遠征では白河結城氏関連の城を訪れた繋がりで、今回は小山氏関連の城が目当てである。

いわき市に到着してまず目指したのが山間部にある上遠野郷で、小山氏一族の上遠野氏のかつての本拠地である。植田から山田経由で上遠野に向かい、途中で上滝に立ち寄った。ここには上遠野氏の一族の滝氏の居城である亀岡城がある。城跡とされる場所は鮫川に面した台地になっており、現在は民家が立ち並び、あとは耕地となっている。西側は鮫川、北側は沢の部分を外堀とし、やや斜面は急になっているが、東側はちょっとした丘陵続きで現在は雑木林が茂っている。南側は台地部分がなだらかに降っているが、丘陵部分は南へと続いている。川沿いの低地から台地へと登る道が数箇所あり、2箇所ほどが不自然な沢の形の道路となって橋がかかっているので、この部分はかつての堀なのかもしれない。正直なところ資料に乏しかったので、この場所が城跡でいいのか戸惑っていたが、西端の小さな郭に祠があったので、いかにも城跡という感じが漂っていて少し確信が持てた。全体的に見て川と沢を外堀とした丘城のように見えるが、今回は立ち入っていない東側の山の部分に主郭があるのかもしれない。

亀岡城跡を散策した後は上遠野へと移動し、本日の本命である上遠野城へと向かった。上遠野城については公民館に地図やパンフレットがあると聞いていたのでさっそく公民館に向かったが、その前に公民館の西側にある神社(名称撮影ミスにより不明)へと登った。ここからは上遠野の中心が軽く見渡せるが、この神社の裏の竹やぶを抜けたさらに上には奥宮があり、どうやらここも上遠野城の物見台(出城か?)の一つだという。神社から公民館へ立ち寄って資料を確認した後、三峰神社口から登城することにした。神社の鳥居をくぐると即急斜面を登ることになり、上りきった先の尾根に三峰神社の本体と思われる小さな祠があり、この祠の裏を抜けて尾根がずっと続いている。尾根に沿って二度ほどアップダウンを繰り返した後、亀の子石と呼ばれる狼煙台跡に着いた。ここはほぼ円形に近い岩場で眺めもいいが、岩の横に何やら人工的な感じの穴が開いており、中には何も無いが何か置かれていたような形跡が感じられる。亀の子石からさらに尾根を進むと「しのぶ平」と呼ばれる頂上についた。ここには三角点があり、どうやらここらへんでは最も高い場所らしく城の物見台だという。ここから少し下りながら尾根沿いに進むと堀切が目の前に現れ、やっとハッキリとわかる人工的な防御遺構を目にすることが出来た。この堀切を越えて進むと再び堀切があり、さらに進むと切岸が現れるが、ハイキングコースの指示ではこの切岸をロープを使って荒業で乗り越えている。実際の通路は切岸を北側に迂回する武者走りと呼ばれる道だろうが、今回はとりあえず切岸をロープで登ってみた。登った所には物見台との標識があったが、すぐにこの物見台自体が中枢部分の郭の城塁の一部であることが判った。物見台を越えた先には自分の想像以上に広い空間が広がっており、内部は何段かの郭に分かれていたが、大きく外側に土塁が展開している見事な郭だった。南側だけ塁壁が無く、沢のような部分を囲む形で郭が展開しているため、一言で言うなら馬蹄のような縄張りである。高い郭と低い郭を区切る部分には野積みの石垣が積まれており、多少は崩れているがよく形を残している。中枢部分の郭群は半分以上は木々が茂っているが、東側の郭は整備されて休憩所も設置されてあるし、東南部からは遠くに海が見えるほど展望が良く、展望風景についての絵図もある。ちなみに下草を刈って整備しているのも、休憩所や説明板の設置しているのも全て地元の人達の有志で作られた「八潮見城探検隊」という方々の手によるものだという。なんとも羨ましい愛された城である。主郭部分から東に抜けようとするとそろばん橋がかかる竪堀があり、ここの堀は岩盤が見えるほど削られているため圧巻である。橋を越えてさらに東に進むと主郭の城塁の外側に出るが、ここで再び驚いた。内側からはただの土塁に見えたが、外側から見ると垂直に切り立った岸壁なのである。まさに自然の城壁である。ここからさらに東に進むと下山ルートとなるが、縄張り的にはこちらが大手口だろう。道なりに降っていくと、途中でハイキングルートには載っていない深山田口への分岐があるが、そっちへ行ってもしょうがないので普通に八幡神社へ続くルートを目指す。途中の堀底道を抜けた先に堀切と土橋があるが、ハイキングルートではこちらには向かわず塁壁に登ってUターンしている。この土橋の先は地図で確認したところどうやら上遠野中学校裏に抜けるらしい。ちなみに聞いた話ではハイキングルートが整備される前は中学校裏から登るのが普通だったという。とりあえず、平日に中学校の敷地に抜けるのは恥ずかしいので、素直にハイキングルートに沿って八幡神社へ向かうとする。ある程度進むと二重堀切りがあり、これもやや風化しているがハッキリ残っていて素晴らしい。堀切を抜けてなだらかな斜面を降りやっと八幡神社へと到着したが、さすがに既に足がフラフラになっていた。他にも見ておきたい部分があったが、さすがにキツイので本日の宿泊地であるいわき湯本へと向かうことにした。

上遠野から御斎所街道を東に進むと湯本に出る。湯本は古くは三函(さばこ)と呼ばれ、古代から温泉が有名な地だったらしく、江戸時代には浜街道唯一の温泉宿場町として栄えたそうである。湯本に着くとさっそく温泉独特の硫黄臭い匂いが漂ってきて、すぐにでも湯に入って体を休めたくなったが、まだ日が沈むまで時間があったため、南北朝時代に築かれた湯本城の跡を見に行くことにした。湯本城のあった場所は観音山と呼ばれる場所で、詳しい縄張りは判らないが、とりあえず観音山公園に登ってみることにした。湯本の温泉街から急斜面を登った先に観音山公園はあり、街中に近いとはいえかなり御老体には辛そうな場所にある公園である。その代わり頂上からの眺めは良く、湯本の街を見下ろすことができる。ちなみに山の南斜面には古滝屋旅館が伸びるように取り付いておりけっこう圧巻である。肝心の公園についてだが、上った先は展望のよい郭となっているが、奥に向かうと一段低くなり、その代わり広くなって公園の遊具などが置いてある。よく見回すと山を広く削って無理やり作られた平場であり、これでは往時の状況は判らない。ちなみに公園の東側は墓場になっていて山の谷間まで墓がびっしりと展開している様子もある意味圧巻である。歩き回ってみるとどうやら出入り口は東側にしか無いらしく、かなり不便な公園である。観音山の上にはかつて観音堂があったが、戊辰戦争で消失したというので、観音堂も戦場になったということだろう。観音堂がかつての湯本城であると考えれば戦場となるのにも納得できるが、明確な遺構などが確認できなかったのでなんとも言えないものである。

観音山公園を散策した後はホテルへと向かいさっそく温泉に入って体を休めた。後編へ続く。

いわき散策・後編(福島県)2006年12月24日 23時32分40秒

出羽神社(画面左脇に汐谷城の看板)
湯本の温泉のおかげか前日の山歩きの疲れはほとんど残っていなかったため、朝からさっそく城めぐりに出かけた。

湯本には江戸時代の湯長谷藩の城もあるが、城跡は現在は学校となっており、これから登校時間ということもあって今回は回避することにした。湯本から南下して、旧泉藩の城下町へと向かう。泉藩の藩庁である泉城がここにはあるが、公民館に碑があるだけで、城跡は完全に街に埋没して判らなくなっていた。公民館からコンピューター学校、隣の保育園あたりが城跡らしいが、平地で道も碁盤目に近いため言われなければ判らない程である。ただ、保育園より南の一角に住宅地に不釣合いな立ち入り禁止の荒地があり、その中には沼もあったのでもしかするとこれは堀の一部かもしれない。

泉城跡より南に少し下ると滝尻城跡に着く。中世には滝尻がこの地域の中心地だったが、泉藩が出来る時に泉に周辺の村々がかき集められて城下町が創られたため近世には泉が中心地となったという。滝尻城は藤原川と釜戸川に挟まれた要地の滝尻に作られた平城である。南北朝時代には菊田荘地頭職の小山駿河権守が滝尻城を拠点に北朝勢と戦ったという。現在城跡は諏訪神社となっており、周囲には土塁が残っている。諏訪神社から道路を挟んだ北東部分の小さな社の辺りにも塁壁があり、そこから東側の畑は一段低くなっているのでここが城と外の境界だと思われる。諏訪神社の境内に入ると大きな沼があるが、参道に分かれて対称に配置されているので、これは神社を勧請した時に作られたものと思われる。

滝尻城跡を散策した後はさらに南下し植田へと向かった。この地は鎌倉時代は地頭の小山氏の領地だが、実際に現地を支配していたのは菊田氏であった。南北朝時代には南朝の小山氏に従って菊田氏も戦っており、ある意味で菊田氏は地頭の小山氏の家臣的立場にあったものと思われる。というわけで、まずは菊田氏の城の一つである汐谷城跡へと向かった。

汐谷城跡は植田の街の東方の丘陵地帯にあり、現在その場所には出羽神社が建っている。無名に近い城かと思ったが、意外にも神社の前には汐谷城跡の看板が建っていた。だが、説明に書かれてるのは創作の安寿と厨子王の話のことであり、菊田氏の名前など一切出てこないので困ったものである。とりあえず、出羽神社へと登ってみるが、登る途中の階段が崩壊しているなどかなり危険な状態になっている。実際、神社のある丘陵の斜面は崖に近く要害としては適しているが、登るには大変な場所である。神社の本殿のある場所は丘陵の尾根が半島状に突き出た場所で、植田の街が見渡せて展望にはいい場所である。汐谷城は出羽神社の裏の山だというので、さらに山奥のの方へ分け入ってみたが、どうも城跡らしい遺構が見つからない。削平された平場が無く、斜面にも帯郭らしいものも見つからない。どんどん進むうちに両側が崖になった峰に来てしまったが、これ以上奥に行っても何も無さそうなので引き返すことにした。森の奥ではあるが、遠くからずっと子供達の声が聞こえていたので植田小学校の裏山あたりに居たんだろうと思う。年代が経ち過ぎて遺構が風化してしまったのか、または場所が違うのかは判らないが城跡ならではのものが見れず残念である。

汐谷城の後は植田の街の西側にある植田城へと向かった。植田城は鎌倉時代は菊田氏が居城としており、戦国時代にも岩城氏一族の植田氏が居城とするなど、この地域の中心だった城である。現在、城跡はそのまま住所にもなっており、「館跡」「東館」「館崎」といった判りやすい地名がついている。とりあえず、「館崎」から訪れてみたが、ここは東から西へ伸びる丘陵の東端であり、愛宕神社が建っている。見たところ物見台といった感じである。愛宕神社の脇の麓には植田稲荷神社があり、説明によれば梶原美濃守が植田城を修築した時に勧請されたものだという。丘陵はここから西へずっと続いているが、南側が護岸されたせいか峰の部分が威容に狭くなっている。また護岸のせいで南側からは登れないので、北側から「館跡」に侵入してみたが、ここには公園がある他は団地となっており。特に遺構は見当たらない。公園部分が不自然に2段になっているので、公園は2つの郭の境界に作られたものと思われる。団地よりずっと西へ行くと急に低くなっている部分があり、堀切のあとだろうかとも思われるがよく判らない。ここを越えた西側の丘陵は畑になっており、西の端には神社が建っていた。ここより西側はだんだん低くなっておりここらへんが縄張りの西側の限界と思われる。館跡団地のある丘陵も畑のある丘陵もかなり広い面積なので、正直中世の城としては大きすぎる気もする。余談だが、愛宕神社のある場所と館跡団地と畑のある場所は同じ丘陵の上にあるにも関わらず通り抜けできそうになかったため、それぞれ北側を迂回して向かっている。登って降りてまた登ってを繰り返したわけである。

植田城を散策した後はまだ太陽が出ていたが、神奈川まで今日中に帰還しないといけないので家路につくことにした。