9月15日・16日 越後遠征2007年09月24日 21時18分55秒

本丸まで運んだ土嚢殿in天守台
三連休の前2日を利用して上越方面へ出かけてきました。今回は大河ドラマ「風林火山」の上杉サイドに影響されての遠征です。

まず最初に訪れたのが地震の爪あとが残る柏崎で、宇佐美氏の居城である枇杷島城が目当てです。城跡に行く前に駅前通り沿いにあった「そばよし」で腹ごしらえをしたのですが、ここのチャーシュー麺は普通に大盛りな上にドンブリがチャーシューで埋め尽くされていて圧倒的でした。

枇杷島城は蛇行する鵜川両岸の丘を島に見立てた平城で、現在では河川改修によりその特徴ある縄張りは消滅してしまっている。とりあえず、城跡となっている柏崎総合高校(農業高校?)にお邪魔して城跡の碑の場所を聞こうと思ったもの、休日にも関わらず思いのほか生徒が多かったため、今回は遠慮することにした。

枇杷島城跡を散策した後は柏崎を後にして妙高高原へと向かい、妙高温泉にて一泊した翌日に向かった先が、上杉氏の居城として名高い春日山城で、今回の旅のメインの目的地である。

春日山に着いてまず先に向かったのが、総構えの北側にある「ものがたり館」で、ここでは上杉謙信を中心とする歴史解説の映像を見ることができた。

ものがたり館を出た後は建物や土塁などが復元された東城砦と史跡広場(総構え)を散策したが、砦は小さいながらもよく出来ており、総構えも復元されている部分は一部だが、それでもかなり広く、端から端まで移動するだけでも汗びっしょりになってしまった。

山の麓の総構えを散策した後は、大手道より登城を開始したが、大手にも関わらず現在は遠回りでマイナールートとされてしまっており、実際に山の上に行くまで誰ともすれ違うことは無かった。鬱蒼と木々が覆い茂る山道を登っていくとまず番所跡と言う開けた場所に出る。ここには土塁の一部が残っているが、一見すると一里塚のようで面白い。さらに只管山道を登っていくと、堀底道を抜けた先に急に開けた平場が現れる。ここが南三の丸で、現在は畑となっている。ここの一角に青い土嚢袋が置いてあり、パンフの説明によれば本丸の補修で使うものらしく、気が向いたら本丸まで運んで欲しいとのことである。そこで、せっかくだし記念にもなるので土嚢殿(仮称)を1人抱えて登ることにした。

南三の丸からさらに登ると、柿崎屋敷跡に出るがここの平場の手前は堀切のようになっており、どうやら昔は橋が架かっていたようである。柿崎屋敷跡から堀を渡ってさらに登ると、左手に景勝屋敷跡があり、そこから井戸郭に行けるようだったが、今回はあえて東側のルートを通ることにした。ここら辺でやっと自分以外の人間とすれ違うようになったが、ここですれ違った人の1人が後に土嚢を2個ほど担いで登っていた光景を見たときは、やっぱちゃんと運んでくれる人がいるんだと感動してしまった。

最後の坂を登りきるとそこが本丸と天守郭の間の堀切で、ここで土嚢殿と記念撮影(笑)し、土嚢殿を本丸中央の囲いの中へ置いてお別れすることに・・・。大手道で全く人と出会わなかったのが嘘のように本丸は人々で賑わっており、上杉氏の人気の高さに驚かされた。そして、本丸からの眺めは素晴らしく、高田や直江津、そして日本海や米山も一望できて絶景だった。

本丸背後の一段降りた郭には井戸があり、この井戸が大きくて深く、今も水を湛えており今も城は健在なのだなと思い知らされた。本丸の北側の堀切とそれを挟んだ郭には護摩堂や毘沙門堂等があり、当時ここで謙信が祈祷などをしていたと思うと感慨深い。

毘沙門堂からさらに北側へ郭を降っていくと直江屋敷跡に出るが、ここは三段に渡って郭が続いており、直江氏の重臣ぶりが良く判る。さらに北側へどんどん降っていくと、急に大きな堀切へとぶち当たる。ここの堀切は二重に展開しており、説明によれば千貫門を突破してきた敵にここが道だと思わせて追い込み、そして上から攻撃する場所だという。たしかに千貫門のある郭からだと、この堀切が堀底道のように見えるので面白い。

千貫門よりさらにどんどん降っていくと広い郭に出るが、ここが政庁跡で現在の春日山神社の境内である。ここら辺まで来ると、土産物屋や休憩所などもあり、いかにも観光地のような雰囲気で賑わっていた。自分もさすがに疲れていたので、休憩がてらに「見晴屋」で昼飯をとることにした。

腹ごしらえの後は下山し、春日山城の城門を移築した林泉寺の山門を見に行ったが、せっかくなので寺内も見ようと思ったら、寺内に入るには500円かかるということ・・・。まぁ、資料館のような所の入場券も兼ねているので、しょうがないかなと思ったものの、やはり少し高いような気もする。

春日山城を一通り周った後は直江津駅方面へと北上して、府中の中心だった御館を見に行った。しかし、現在ではその面影は全く無く、住宅地に囲まれた小さな公園に標柱があるのみだった。この後、時間があれば福島城まで行きたかったが、春日山城で半日費やした関係で、もう16時を周っており、ここで横浜への帰途へと着いた。