宇都宮城散策 8月5日2007年08月11日 00時19分28秒

宇都宮城址御本丸広場
8月5日の日曜日は少し遠出をして栃木県の宇都宮へと出かけてきました。

久々に餃子が食べたくなったのもありますが、今回の目当ては今年の3月に復元工事が完了した宇都宮城址を見ることです。

宇都宮城はかつて関東七名城に数えられるほどの立派な城ですが、戊辰戦争で焼失後に破壊が進み、昭和になるともう堀すら埋め立てられて城跡の面影は全く無いに等しい状況でした。実際、数年前に宇都宮城を訪れた時は一応公園となっていた本丸跡の一部を見た時は、その遺構が何も無いに等しい現状に酷く落胆させられたほどです。名も無い城ならまだマシなのですが「名城」と言われた城がその面影を失うのは、その土地のシンボルが無くなるようで悲しいものがあります。

・・・というわけで今回の復元は未来に宇都宮城の存在を残すことができるため、結果はどうあれ少しは期待をしていたのですが、実際に訪れて見て別な意味でショックを受けることになるとは思いも寄りませんでした(笑)

ちょうどお宮まつりで賑わう宇都宮市内を抜けて、城址のある公園へとやってくるとまず高い土塁とその上に建つ櫓と城壁がまっさきに目に飛び込んできた。やたらと高い土塁は明治の頃の宇都宮城の貴重な写真にも写っているので異存は無いが、元々何もなかった場所に突然丘ができたせいか、やはりどこかぎこちない雰囲気がある。土塁の外側には水堀も復元されてるのが、よく見るとかなり底が浅い。この水堀を見ていると、なぜか大河ドラマの風林火山で使用している躑躅ヶ崎館のセットの水堀を思い出してしまう。ただ違和感はあるものの、外観の出来には正直感心する部分があった。

そして肝心の城址の内部であるが、そこにはなんとも異様な光景が広がっていた。まず土塁に見えていたものは実はコンクリートの建物に土を盛り付けたもので内側から見ると、まるで車庫の入り口のようなものが土塁から6箇所くらい突出ているのである。そしてさらに土塁の中から煙突のようにエレベーターが突出ており、土塁の上にはエレベーターで昇れるというバリアフリーっぷりなのである。土塁内部の建物の中はちょっとした資料館になっており、昔は清明館におかれていた模型などもこちらに移されていた。

もはや模擬土塁とでも言ったような驚くべき造りだが、土塁の上に建つ櫓に関してはかなり精巧に造られていたので、この部分に関しては少し感動できた。さらに普段は公開されていない2階にもこの日は登ることができたのでなんともラッキーだった。

一通り城址公園を周ってみたが、正直な感想としては「力を入れる場所を間違ったのではないか?」という印象だった。それでも風化して地図と人々の記憶からも無くなるよりはマシと考えると複雑な心境である。

寄居・藤岡散策(埼玉県・群馬県) 8月11日2007年08月28日 02時27分50秒

三の丸(左)と二の丸(右)の間の堀
久々に晴天に恵まれた休日なので武州と上州の境界らへんまで出かけてきました。まず最初に訪れたのは日本百名城にも選ばれている寄居の鉢形城で、城跡は市街を抜けた先の荒川と深沢川に挟まれた台地の上にある。この城跡のある場所は陸続きなのは西側のみで残り三方は川に面した断崖というまさに要害の地に造られている。

荒川を橋を渡ってすぐの場所が城の東端に当たる笹曲輪で、今は郭の真ん中をY字に車道が通っている。ここから西に進むと一段高くなって本丸となるが、この境界には土塁があって場所によっては野積の石垣もあった。本丸は大きく分けて上段と下段の二区画に別れており、下段を車道が貫通している。一応公園化しているので郭内を散策できるが、二の丸へ向かうには一度車道に出なければならなかった。

本丸跡と二の丸跡の間には大きな堀切があって、今は車道が通っていているが面影はよく残っている。二の丸跡も大きく分けて二区画に分かれており、東側の郭は草が覆い茂っていたが、西側の郭は綺麗に整備されて公園化されていた。公園化と言っても草を刈って道を設けただけの本丸跡とは違い、こちら側は土塁と堀を復元した上での公園化で、木々も外縁部にしか無いために熱い日差しをガンガン受けながら散策して回った。

二の丸跡と三の丸跡の堀も綺麗に復元され、南北の馬出のうち、北側には橋も架けられていた。この馬出には二の丸跡の城山稲荷神社裏から通ることになるが、正直な所段差があるため、二の丸側へも橋が架かっていたのではないかと思えてならない。まぁ、そもそもこの城は二の丸より三の丸の方が高い位置にあるので、三の丸が落とされた後に二の丸の境界で防ぐのは厳しいように思える。

三の丸跡も二の丸跡同様に復元整備されているが、こちらには建物一棟と城門、そして土塁を支えていた石垣等が復元されていて二の丸より見所が多い。また三の丸より西側一帯は掘も深く、広くなっており、なかなか迫力があって面白い。中でも弁天社跡などは堀というより当時は池のようなものだったらしいが、今は水は無く代わりに雑草が深く覆い茂っていた。

三の丸跡一帯から深沢川を渡った先は広い縄張りをもつ外曲輪で、今は西側一帯に鉢形城歴史館が建っている館内は文字通り鉢形城に関する展示がメインだが、文化財を陳列する博物館のようなものではなく、歴史や城の構造を画像と音声などで紹介する場所といった感じであった。歴史館の敷地の南側には城下町との境界となる土塁と堀があり、東側の民家が多くなる場所付近まで長く続いていた。東側に入ってしまうと住宅地と畑が多くなってしまったため、ここら辺の散策は諦めた。

外曲輪を東側に進み、深沢川を渡ると再び最初に来た笹曲輪に戻れたので、笹曲輪にあった蕎麦屋で昼飯を食べて次の目的地に向かうことにした。

寄居から北上して上州へと入った場所にある藤岡が次に向かった目的地だったが、実際の所は城よりも藤岡ラーメンが目的だった。それでもラーメンよりまず先に城跡を訪れるために芦田城跡に向かった。事前に学校の敷地になっているとのことだったので期待はしていませんでしたが、思いのほか住宅地に囲まれた場所だったため、散策と撮影は自重してきました(苦笑)。また、近くには何やら城山公園という名称の公園があったものの、どうみても周囲は平地なので、何が城山なのか理解に苦しむ公園でした(笑)。城跡の東側にはこんもりとした場所があって慰霊碑と社があったものの、この場所が遺構と関係あるのかは結局よく判りませんでした。

微妙に消化不良なまま時間の都合で散策を切り上げた後は街中のみやご食堂でラーメンを頂いて帰途に着いた。なお、ラーメンはスープはあっさりで麺が太く歯ごたえがあるのが印象的でした。