4月14日奥州桜と城址の旅・その4【長沼城】(福島県須賀川市) ― 2013年04月18日 21時38分14秒
土曜日は阿武隈急行沿線から郡山まで移動して一泊し、翌日の日曜日には郡山市街から長沼まで移動した。長沼の桜はまだ時期的に早いと思ったが、今年はどこも桜の開花が早かったため、例年よりは咲いているんじゃないかという期待があったためである。

長沼城は会津と白河の間にあり、蘆名氏の頃は会津から仙道へと抜ける場所の重要拠点だった。上杉氏の時代には白河口で徳川家康を迎撃する計画のために長沼城の守りが強化されており、石垣を用いた立派な城だったという。本丸より東側が今は公園として整備されており、桜の名所ともなっているのだが、画像の通りまだ早かったようで、3分~5分咲きといったところだった。


坂下口から坂を登ると稲荷郭へと辿り着くが、稲荷と言いつつ今は金比羅様の石碑が祀られていた。たぶん当時は今本丸にある稲荷神社がここにあったのだろう。

稲荷郭から登った場所が三の丸で、そこそこ広い郭だが、画像とは逆の方向に給水施設があるため、本来の面積より狭くなっている。

長沼古城図では三の丸から北と南の帯郭に移動できるように描かれているが、現状では北側に移動できる箇所は無くなっていた。地盤が抉られたようにも見えるので、年月を経て崩れてしまったのかもしれない。

三の丸からさらに登った頂上が本丸跡で、今は日高見稲荷神社が祀られていた。なお、郭の隅には東屋があり、長沼の街を見渡すことが出来た。

本丸ではちょうど梅の花が満開となっており、地味にも綺麗な花を咲かせていた。

本丸跡には土塁が残されており、石垣の残骸もかなり沢山残っていた。画像は神社の本殿の裏側であるが、この場所には本来は本丸西門(詰門)があり、発掘画像ではハッキリと石垣で出来た虎口が確認できる。現在はごらんの通り埋め戻されているため、ここから二の丸に出ることは出来ない。なお、二の丸にも土塁や石垣の残骸が確認できたが、それより西側は雑木林や藪になっており、入山禁止になっているので今回は確認していない。

一度坂下口まで戻り、城跡を大きく北に迂回して大手口付近へと向かって見たが、大手口付近は画像のように畑や藪が広がっており、正確な位置を特定することが出来なかった。

城跡の総構えは長沼の街となって民家が立ち並んでいるが、それでも東側の畑に出ると、3重になった惣堀の跡の一部がハッキリと確認できた。堀の中は今は畑になっており、堀と堀の間は土塁によって仕切られていた。廃城となった城は惣堀から真っ先に埋め立てられるため、三重の堀跡の形跡が残っているのは珍しいかもしれない。
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