8月4日福島日帰り城廻・その1【白河城】(福島県白河市)2013年08月05日 22時38分51秒

このところ天候が不安定だったが、日曜日は比較的落ち着きそうだったので少し足を伸ばして福島県へと出かけて来た。最初の目的地は白河市の白河城(小峰城)で、今年の春に整備が完了したばかりの道場門跡が目当てである。


白河城道場門跡
発掘した堀はある程度埋め戻しており、石垣が2mほど地上に出るように整備されているが、実際は5m以上の石垣が地面の下に眠っているという。門跡の周辺は芝生になっているが、石垣にはもう既に雑草が茂ってきており、整備されたばかりなのに見栄えが悪くなっていたのが少しだけ気になった。


白河城道場門跡礎石
枡型内部は道にそって石畳が敷かれ、その周囲には白い小石が敷き詰められており、ちょうど門があった位置には礎石が再現されていた。この石畳の道の先にはイベント広場があるのだが、この日はちょうど花火大会がある夏祭りの日で、午後からのイベントのための設営がせっせと行われていた。


白河城三の丸土塁
道場門跡を見た後は、せっかくなので三の丸遺構繋がりで大手門跡から東に少し行った場所にある土塁跡も見に行った。この部分はちょうど横矢のように土塁が折れている箇所で、手前から右奥に見える歩道は堀の跡でもある。ちなみにここの遺構は駅前のMAPにも地味に載っている。


修復工事中の白河城
城の中心は震災の復旧工事が続いており、立ち入り禁止箇所は相変わらず変化が無かったが、以前は崩れたまま後回しにされていた箇所にも新たに土嚢が積まれて崩落防止措置がとられていた。石垣の積みなおしはまだまだ先になるが、現地の方の話では来年の春には無事な箇所を開放して本丸に入れるようになる見通しだそうである。

8月4日福島日帰り城廻・その2【関川館】(福島県白河市)2013年08月06日 23時24分29秒

白河城を散策した後は、白河城下絵図にも載っている関川館跡にも久しぶりに立ち寄った。

関川寺
関川館跡は現在は関川寺の境内になっており、館跡西側の遺構がよく残されている。だが、東側は住宅地や役所の敷地となって遺構がほとんど確認できない。


関川館の土塁と堀
以前来た時は気付かなかったが、西側の堀の外側には関川館の説明板が設置されていた。説明板では「関川寺館跡」らしいが、遺跡データベースや城郭体系などでは「関川館跡」なので、当サイトは後者の呼び名のまま継続することにする。


関川館の出構?
白河城下絵図を良く見ると関川館跡の西側の土塁の真ん中付近に出構えのように突き出た部分がある。外から見ると草木が邪魔で気付かなかったが、墓所に入る道から見ると確かに突き出ている。土塁は改めて見るとけっこう高いので、この辺りは結城宗広の時代よりもずっと後に改築されたのかもしれない。

8月4日福島日帰り城廻・その3【平城】(福島県いわき市)2013年08月07日 23時31分08秒

白河を散策した後は郡山経由でいわきへと移動したが、この日ちょうど宮城県沖を震源とするM6クラスの地震に遭遇し、郡山付近でしばらく立ち往生する羽目になった。なんとか無事にいわきに到着した後は、磐城平城跡へと立ち寄った。


いわき平城塗師櫓跡
磐城平城の塗師櫓跡石垣は震災で一度崩れており、上部の1mほどの石垣は撤去されて無くなっている。このあたりは前回訪れた時から何も進展していないが、いわき市の復旧計画がさっぱり判らないので、白河市よりも少々不安がある。


龍が城美術館
本丸跡の龍が城美術館にも立ち寄ろうとしたが残念ながら休館状態だった。本来の休館日は月曜日なので、やはりまだ復旧していないのだろうか・・・。


平城中門跡の石垣
中門跡石垣の上に登る階段は前回よりも厳重に封鎖されており、どうやらこのまましばらくは放置状態になるようだ。


平城中門跡
ちなみに前回訪れた時と大きく変わっていた箇所があり、中門跡の西側にあった駐車場の位置に新たにアパートが建設されていた。ちなみに駐車場があった頃は、いわき市の本丸跡から市街地を見渡せる数少ないスポットだった。なお、駐車場はどうやら中門跡の東側に移動したようで、画像中央奥のようになっていた。


放射線計測器
変化と言えば丹後沢公園の放射線測定器の値も、以前訪れた時の0.221の値から少しだけ下がっていた。

8月4日福島日帰り城廻・その4【泉陣屋】(福島県いわき市)2013年08月09日 00時07分23秒

白河から阿武隈山地を越えてわざわざ浜通りに出た目的は平城ではなく、泉藩の藩庁であった泉陣屋の移築門を確認するためであり、この門も震災の影響を受けたと聞いたためである。


泉陣屋跡
泉陣屋跡は今は泉公民館とコンピューターカレッジの敷地となっており、北東隅に城址碑などが設置されている。


泉西公園
ちなみに公民館の北に隣接する泉西公園内に土塁の遺構があるとも聞いたが、確かに土盛があるものの見た感じでは土塁かどうかはハッキリ判らなかった。


移築泉陣屋門
移築門は泉陣屋跡から400mほど東に行った住宅地の中にあり、震災の影響を受けたと聞いたが、つっかえ棒が付いているくらいで健在なのが確認できたのは良かった。ただ、門のある民家の土塀はコンクリート塀に変わっていたので被害は確かにあったのだろう。

8月12日夏季山梨遠征・その1【新府城】(山梨県韮崎市)2013年08月14日 23時55分25秒

夏季休暇を取ってお盆前に何処かに出かけたいと思っていたものの、連日の猛暑で出かける気力が薄れ、繁忙期により直前の宿の確保が難しく再三スケジュール修正をした挙句に甲斐国へと出かけることになった。今回は正直特に深い理由は無い衝動的散策となったが、まずは以前に一度だけ訪れたことのある新府城へ向かった。


藤武神社一の鳥居
新府駅の集落から丘を登った先に藤武神社の一の鳥居があり、この参道が新府城跡の本丸まで一直線に続いている。鳥居を潜ると一度沢状地形に降りてから再び登ることになるが、この凹が新府城の外掘跡でもある。


南大手の三日月堀
神社の参道からは登らず、南側に迂回している道から城跡の丘に登ると南大手の枡型が見えてくる。この枡型の先には武田家得意の丸馬出と三日月堀があった。堀から馬出の上まではけっこうな落差があり、改めて見ても大手口としてはなかなか見事な場所だった。


新府城二の丸
南大手よりもさらに丘の上に登ると、東西に分かれた三の丸や蔀の構えなる郭などが確認でき、いずれもしっかりと土塁が残っているおかげで構造が判り易かった。画像は二の丸の手前の長方形の土塁に囲まれた郭で、二の丸は左奥に見える空間。ちなみに二の丸は草が茫々で散策し辛かった。


新府城本丸からの景色
丘の頂上には本丸跡があり、とにかくこの郭がやたらと広かった。東の脇に神社があるが、大部分は草地であり、中心付近に水の手らしき窪地があった。本丸からの景色は必ずしも絶景ではないが、もし武田軍が篭城していたら画像の方向に織田家の軍勢が展開していただろうと考えるとなかなか興味深い。


藤武神社
藤武神社は藤井庄と武田庄の頭文字を取った神社で、新府城築城時は稲荷郭にあった守護神の稲荷神社が前身らしいがイマイチ定かではない。神社の参道は地形を無視してまっすぐ伸びているため、参道は本丸への最短ルートとなっている。


藤武神社二の鳥居と帯郭
参道を降りていくと二の鳥居のある位置に丘の中腹を横断する帯郭跡がある。ちなみに南側は大手門跡まで続いている。


新府城出構
参道を降りてから北に回りこむと、丘の麓に沿って外掘跡が広がっている。その外掘跡に突き出た出っ張りの部分が新府城独特の出構え遺構で、画像左は「東出構え」、画像右奥にかすかに見えるのが「西出構え」である。


外掘(西側の水堀)
外掘跡は水堀だったが現状ではほとんどが埋まっており、西側の一部だけ水堀が復元されていた。新府城は昔来た時とあまり変わっていないとこの時までは思っていたが、何気に搦手方面は整備されており説明石版やベンチ等もあって驚かされた。搦手方面はほとんど訪れる人が居ない感じだったので、何故こちら側が優先的に整備されていたのかは謎である。


新府城搦手枡型
搦手口には土橋と方形の枡型があり、枡型を抜けた先の郭も外郭から堀で切り離された出丸のような感じで、大手に負けず劣らず見ごたえがある構造だった。ちなみにMAPには搦手口に四脚門と載っていたが、門の正確な位置はよく判らなかった。


新府城井戸跡
最後に搦手口と二の丸の中間あたりにある井戸跡も確認に行ったが、予想以上に藪化が侵攻しており、底まで降りれるように付けられていた階段ももはや見えない状態だった。説明板には整備当初の画像が載っており、現状と比較するとただ絶句するしかない状態だった。