11月21日糠部三連休遠征・その1(岩手県二戸市) ― 2009年12月05日 22時01分51秒
【佐々木館】
11月の三連休は久々に八戸方面へと遠出してきた。北東北はそろそろ雪が降ってもおかしくないので、雪が降りやすい日本海側を避けたつもりだったが、当日は宮城県を越えた時点で一気にあたりは雪景色となり、今回の旅の見直しを迫られることになった。雪の中でどこに行こうかと頭を悩めているうちに盛岡を越えて二戸市に至ったが、不思議なことに二戸市では雪が降っておらず、周囲の山々も雪の無い晩秋の景色が広がっていた。
二戸に立ち寄ってまず向ったのは米沢(まいさわ)の地で、目指すは斗米駅の真西に見える台地にある佐々木館跡である。佐々木館は鎌倉時代に御家人の佐々木盛綱の子孫(一族?)が下向して居館とした場所で、後に佐々木氏は南部氏の家臣となって代々続くが、九戸の乱の時に九戸政実の軍勢の奇襲を受けて落城したという。この時に佐々木氏の北姫は城の水堀に身を投げ、その短い生涯を終えたという。
台地の斜面はかなり切り立っており、登り口は台地の南の神社付近と背後の堀切方面に着いていた。とりあえず、台地の背後から車道沿いに登るが、ここの堀切はかなり幅が広く、背後の切り離した台地にも切り込みを入れる等なかなか立派なものだった。台地の上もなかなか広く、削平地には現在は民家が数件立ち並んでいた。台地の上には土塁らしきものがあったものの、これといって目立った遺構は見られなかった。
台地の上を散策した後は堀切に降りて北に進み、佐々木ヶ池へと出た。この池が北姫が身投げした場所であるが、現在は砂防ダムのようになっているため、往時はもう少し小さい池だったのだろう。この池の西側の丘が池に突出たような地形の場所を散策したが、この部分は雑木林であるものの、人工的に作られた溝や土塁のようなものがあり、なぜこんな地形になったのか非常に気になる部分だった。なお、佐々木館の説明板は池の砂防ダムのようになった部分の北側にあった。
佐々木ヶ池一帯の沢を利用した堀を抜け、北側の台地へと登ったが、ここも前述の丘同様に立派な堀切で切られていた。この丘も佐々木館の一部で稲荷館(稲荷曲輪)と称されている。稲荷館の堀切は耕地化していたが、良く見ると耕地化していない部分が二重堀となっており、往時はこの堀切全体が二重堀であったように見受けられた。
稲荷館の丘に登ってみるとこちらもなかなかの広さで、現在は主に畑となっていたが、東側に向うと、またしても堀切で郭が切られていた。この堀切より東側は笹薮と植林地?のようになっており、北側には2、3段の腰郭が確認できた。
稲荷館から一度車道へと降りた後、東側に回りこんで台地の東端の麓へと移動したが、ここには曲輪の名称の由来と思われる太郎稲荷神社が腰郭跡にあった。なお、神社の入り口の近くには「佐々木ヶ池」の誘導標識(0.2km)があり、一応特別な場所として自治体にも認識されているようであった。
11月の三連休は久々に八戸方面へと遠出してきた。北東北はそろそろ雪が降ってもおかしくないので、雪が降りやすい日本海側を避けたつもりだったが、当日は宮城県を越えた時点で一気にあたりは雪景色となり、今回の旅の見直しを迫られることになった。雪の中でどこに行こうかと頭を悩めているうちに盛岡を越えて二戸市に至ったが、不思議なことに二戸市では雪が降っておらず、周囲の山々も雪の無い晩秋の景色が広がっていた。
二戸に立ち寄ってまず向ったのは米沢(まいさわ)の地で、目指すは斗米駅の真西に見える台地にある佐々木館跡である。佐々木館は鎌倉時代に御家人の佐々木盛綱の子孫(一族?)が下向して居館とした場所で、後に佐々木氏は南部氏の家臣となって代々続くが、九戸の乱の時に九戸政実の軍勢の奇襲を受けて落城したという。この時に佐々木氏の北姫は城の水堀に身を投げ、その短い生涯を終えたという。
台地の斜面はかなり切り立っており、登り口は台地の南の神社付近と背後の堀切方面に着いていた。とりあえず、台地の背後から車道沿いに登るが、ここの堀切はかなり幅が広く、背後の切り離した台地にも切り込みを入れる等なかなか立派なものだった。台地の上もなかなか広く、削平地には現在は民家が数件立ち並んでいた。台地の上には土塁らしきものがあったものの、これといって目立った遺構は見られなかった。
台地の上を散策した後は堀切に降りて北に進み、佐々木ヶ池へと出た。この池が北姫が身投げした場所であるが、現在は砂防ダムのようになっているため、往時はもう少し小さい池だったのだろう。この池の西側の丘が池に突出たような地形の場所を散策したが、この部分は雑木林であるものの、人工的に作られた溝や土塁のようなものがあり、なぜこんな地形になったのか非常に気になる部分だった。なお、佐々木館の説明板は池の砂防ダムのようになった部分の北側にあった。
佐々木ヶ池一帯の沢を利用した堀を抜け、北側の台地へと登ったが、ここも前述の丘同様に立派な堀切で切られていた。この丘も佐々木館の一部で稲荷館(稲荷曲輪)と称されている。稲荷館の堀切は耕地化していたが、良く見ると耕地化していない部分が二重堀となっており、往時はこの堀切全体が二重堀であったように見受けられた。
稲荷館の丘に登ってみるとこちらもなかなかの広さで、現在は主に畑となっていたが、東側に向うと、またしても堀切で郭が切られていた。この堀切より東側は笹薮と植林地?のようになっており、北側には2、3段の腰郭が確認できた。
稲荷館から一度車道へと降りた後、東側に回りこんで台地の東端の麓へと移動したが、ここには曲輪の名称の由来と思われる太郎稲荷神社が腰郭跡にあった。なお、神社の入り口の近くには「佐々木ヶ池」の誘導標識(0.2km)があり、一応特別な場所として自治体にも認識されているようであった。
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