11月15日箱根散策・その3(神奈川県箱根町) ― 2009年12月01日 23時36分41秒
【箱根関所】
山中城を散策した後は、再び箱根峠を越えて芦の湖畔へと戻ったが、朝はガラガラだった道は急に渋滞し、歩いて峠を越えたほうが早かったんじゃないかと思うほど移動に時間がかかってしまった。
箱根町に着いた後は昼食を食べ、その後は復元された箱根関所を見に向った。関所は箱根町と元箱根町の間にあり、湖と丘陵に挟まれた旧東海道を塞ぐような形で立ちふさがる関所はなかなかいい雰囲気だった。
関所内部には大番所から足軽番所、そして厩から雪隠や牢屋などまでも復元されており、予想以上に良く出来ていたのでこれには素直に感心してしまった。中でも関所の背後の丘の上には遠見番所があり、ここからは芦の湖が良く見え、今は木々が邪魔なものの関所の逆側や箱根峠も見えるため、ここで関所破りを監視していたのかと思うとなんとも納得いく立地だった。
関所内を楽しんだ後は関所より北にある関所資料館へと行ったが、内部には関所手形などが展示しており、関所破りで磔になった人の話や、関所破りの多くは「薮入り」と報告して軽い罪になるようにしたとの話があってなかなか面白かった。なお、箱根関所は戦に備えた造りになっていたが、この関所が経験した戦いは幕末の戊辰戦争が唯一だという。
山中城を散策した後は、再び箱根峠を越えて芦の湖畔へと戻ったが、朝はガラガラだった道は急に渋滞し、歩いて峠を越えたほうが早かったんじゃないかと思うほど移動に時間がかかってしまった。
箱根町に着いた後は昼食を食べ、その後は復元された箱根関所を見に向った。関所は箱根町と元箱根町の間にあり、湖と丘陵に挟まれた旧東海道を塞ぐような形で立ちふさがる関所はなかなかいい雰囲気だった。
関所内部には大番所から足軽番所、そして厩から雪隠や牢屋などまでも復元されており、予想以上に良く出来ていたのでこれには素直に感心してしまった。中でも関所の背後の丘の上には遠見番所があり、ここからは芦の湖が良く見え、今は木々が邪魔なものの関所の逆側や箱根峠も見えるため、ここで関所破りを監視していたのかと思うとなんとも納得いく立地だった。
関所内を楽しんだ後は関所より北にある関所資料館へと行ったが、内部には関所手形などが展示しており、関所破りで磔になった人の話や、関所破りの多くは「薮入り」と報告して軽い罪になるようにしたとの話があってなかなか面白かった。なお、箱根関所は戦に備えた造りになっていたが、この関所が経験した戦いは幕末の戊辰戦争が唯一だという。
11月15日箱根散策・その4(神奈川県箱根町) ― 2009年12月02日 21時08分20秒
【芦ノ湖】
箱根関所を散策した後は、箱根町港より船へと乗り込み湖上の遊覧へと出かけることにした。船と言っても2種類あるが、自分が乗ったのは小田急系の箱根観光船(海賊船)のほうである。
湖上は少し風が強いため肌寒かったが、船内は大勢の人で混みあっており、座る席が無い状態だった。それでも船内の客の多くが桃源台で乗った人々らしく、次の元箱根港でぞろぞろ下船し、おかげで難なく座ることが出来た。
元箱根港を出航した後は桃源台へと船は進み、途中で箱根神社の鳥居や、山のホテル、竜宮殿といった名だたる建造物が船上から見え、晴天なのもあってなかなかの景色だった。
箱根町港からは約40分ほどで桃源台港に到着し、その後はロープウェイに乗ろうと思ったが、予想以上に行列が出来ていたため、時間を置いてから乗ることにした。
箱根関所を散策した後は、箱根町港より船へと乗り込み湖上の遊覧へと出かけることにした。船と言っても2種類あるが、自分が乗ったのは小田急系の箱根観光船(海賊船)のほうである。
湖上は少し風が強いため肌寒かったが、船内は大勢の人で混みあっており、座る席が無い状態だった。それでも船内の客の多くが桃源台で乗った人々らしく、次の元箱根港でぞろぞろ下船し、おかげで難なく座ることが出来た。
元箱根港を出航した後は桃源台へと船は進み、途中で箱根神社の鳥居や、山のホテル、竜宮殿といった名だたる建造物が船上から見え、晴天なのもあってなかなかの景色だった。
箱根町港からは約40分ほどで桃源台港に到着し、その後はロープウェイに乗ろうと思ったが、予想以上に行列が出来ていたため、時間を置いてから乗ることにした。
11月15日箱根散策・その5(神奈川県箱根町) ― 2009年12月03日 21時38分23秒
【仙石原】
桃源台より少し山を下った場所が前日訪れた仙石原であり、昨日と違って今日は晴天に恵まれたため、再度ススキの原野を見に向うことにした。
既に微妙な時間帯ではあったが、ススキの広がる山の斜面に着いた時にはちょうど山に沈む寸前の夕日が辺りを照らしており、前日とはまた違った風景が広がっていた。しかも、今日は風が強いため、ススキの穂が激しく波打っており、狐色に光るその光景はなんとも美しかった。
前日は山の斜面のススキを貫くように伸びる歩道を散策したが、今回は車道沿いにも散策し、ちょうど車道を挟んで北側(低地側)のススキの中に「箱根仙石原湿原・・・」の石碑も見つけることができた。また、説明板もこの北側にあったが、車道沿いであまり人が歩くような場所ではないため、この説明板が役に立っているのかは疑問であった。
しばらく散策をしているうちについに太陽が山に隠れてしまったため、そこで散策を切り上げて再び桃源台へと戻った。あとは帰るだけだったが、せめてロープウェーに乗ってから帰りたかったためである。
桃源台より少し山を下った場所が前日訪れた仙石原であり、昨日と違って今日は晴天に恵まれたため、再度ススキの原野を見に向うことにした。
既に微妙な時間帯ではあったが、ススキの広がる山の斜面に着いた時にはちょうど山に沈む寸前の夕日が辺りを照らしており、前日とはまた違った風景が広がっていた。しかも、今日は風が強いため、ススキの穂が激しく波打っており、狐色に光るその光景はなんとも美しかった。
前日は山の斜面のススキを貫くように伸びる歩道を散策したが、今回は車道沿いにも散策し、ちょうど車道を挟んで北側(低地側)のススキの中に「箱根仙石原湿原・・・」の石碑も見つけることができた。また、説明板もこの北側にあったが、車道沿いであまり人が歩くような場所ではないため、この説明板が役に立っているのかは疑問であった。
しばらく散策をしているうちについに太陽が山に隠れてしまったため、そこで散策を切り上げて再び桃源台へと戻った。あとは帰るだけだったが、せめてロープウェーに乗ってから帰りたかったためである。
11月15日箱根散策・ラスト(神奈川県箱根町) ― 2009年12月04日 23時51分44秒
【箱根ロープウェーと芦ノ湖】
仙石原から桃源台に戻った後は、さっそくロープウェーに乗ろうとしたが、乗り場は「営業終了」かと勘違いするほど全く人が居らず、仙石原に向う前に見た恐ろしいほどの行列がまさに夢だったのかと思うほどの有様だった。
とりあえず、ロープウェーは最終便まであと1時間あったためなんとか乗れたが、前も後ろも人が居らず、なんとも寂しい状態だった。ロープウェーからは徐々に夕闇に沈んでいく芦ノ湖と富士山を見ることができたが、移動中も刻々と辺りは暗くなっていき、大涌谷に着いた頃にはすっかり夜となってしまった。
ロープウェーは大涌谷で乗り換えることになるが、ここではちょうど下山する観光客の波に飲み込まれ、登ってくる時とは逆の大混雑となった。電車で例えるなら帰宅ラッシュに巻き込まれたと言うべきだろう。
大涌谷から早雲山への降りのロープウェーに乗ると、まずは大涌谷の煙が立ち昇る谷の上を通過するが、この日はかなりの強風のためロープウェーは風に煽られてロープが波打つ状態で、これで事故が起こらないのが不思議なくらいだった。ある意味ちょっとした絶叫マシンである。それでも谷を越えて一気に降りに入ると、山の陰に入ったおかげかまったく風の影響を受けなくなった。
早雲山に着いた後は今度はケーブルカーに乗り換えることになったが、ここでは夜の冷たい風が吹きすさぶホームで長く待たされることになり、上着をもう1枚着てくるんだったと後悔するほど辛い待ち時間だった。
ケーブルカーで強羅まで降りた後は今度は箱根登山鉄道に乗り換え、箱根湯本、小田原経由で帰途に着いたが、正直なところ「次に来るときは桃源台から大涌谷経由で強羅に抜けるコースは避けよう」と心に誓わせられた一日だった。
仙石原から桃源台に戻った後は、さっそくロープウェーに乗ろうとしたが、乗り場は「営業終了」かと勘違いするほど全く人が居らず、仙石原に向う前に見た恐ろしいほどの行列がまさに夢だったのかと思うほどの有様だった。
とりあえず、ロープウェーは最終便まであと1時間あったためなんとか乗れたが、前も後ろも人が居らず、なんとも寂しい状態だった。ロープウェーからは徐々に夕闇に沈んでいく芦ノ湖と富士山を見ることができたが、移動中も刻々と辺りは暗くなっていき、大涌谷に着いた頃にはすっかり夜となってしまった。
ロープウェーは大涌谷で乗り換えることになるが、ここではちょうど下山する観光客の波に飲み込まれ、登ってくる時とは逆の大混雑となった。電車で例えるなら帰宅ラッシュに巻き込まれたと言うべきだろう。
大涌谷から早雲山への降りのロープウェーに乗ると、まずは大涌谷の煙が立ち昇る谷の上を通過するが、この日はかなりの強風のためロープウェーは風に煽られてロープが波打つ状態で、これで事故が起こらないのが不思議なくらいだった。ある意味ちょっとした絶叫マシンである。それでも谷を越えて一気に降りに入ると、山の陰に入ったおかげかまったく風の影響を受けなくなった。
早雲山に着いた後は今度はケーブルカーに乗り換えることになったが、ここでは夜の冷たい風が吹きすさぶホームで長く待たされることになり、上着をもう1枚着てくるんだったと後悔するほど辛い待ち時間だった。
ケーブルカーで強羅まで降りた後は今度は箱根登山鉄道に乗り換え、箱根湯本、小田原経由で帰途に着いたが、正直なところ「次に来るときは桃源台から大涌谷経由で強羅に抜けるコースは避けよう」と心に誓わせられた一日だった。
11月21日糠部三連休遠征・その1(岩手県二戸市) ― 2009年12月05日 22時01分51秒
【佐々木館】
11月の三連休は久々に八戸方面へと遠出してきた。北東北はそろそろ雪が降ってもおかしくないので、雪が降りやすい日本海側を避けたつもりだったが、当日は宮城県を越えた時点で一気にあたりは雪景色となり、今回の旅の見直しを迫られることになった。雪の中でどこに行こうかと頭を悩めているうちに盛岡を越えて二戸市に至ったが、不思議なことに二戸市では雪が降っておらず、周囲の山々も雪の無い晩秋の景色が広がっていた。
二戸に立ち寄ってまず向ったのは米沢(まいさわ)の地で、目指すは斗米駅の真西に見える台地にある佐々木館跡である。佐々木館は鎌倉時代に御家人の佐々木盛綱の子孫(一族?)が下向して居館とした場所で、後に佐々木氏は南部氏の家臣となって代々続くが、九戸の乱の時に九戸政実の軍勢の奇襲を受けて落城したという。この時に佐々木氏の北姫は城の水堀に身を投げ、その短い生涯を終えたという。
台地の斜面はかなり切り立っており、登り口は台地の南の神社付近と背後の堀切方面に着いていた。とりあえず、台地の背後から車道沿いに登るが、ここの堀切はかなり幅が広く、背後の切り離した台地にも切り込みを入れる等なかなか立派なものだった。台地の上もなかなか広く、削平地には現在は民家が数件立ち並んでいた。台地の上には土塁らしきものがあったものの、これといって目立った遺構は見られなかった。
台地の上を散策した後は堀切に降りて北に進み、佐々木ヶ池へと出た。この池が北姫が身投げした場所であるが、現在は砂防ダムのようになっているため、往時はもう少し小さい池だったのだろう。この池の西側の丘が池に突出たような地形の場所を散策したが、この部分は雑木林であるものの、人工的に作られた溝や土塁のようなものがあり、なぜこんな地形になったのか非常に気になる部分だった。なお、佐々木館の説明板は池の砂防ダムのようになった部分の北側にあった。
佐々木ヶ池一帯の沢を利用した堀を抜け、北側の台地へと登ったが、ここも前述の丘同様に立派な堀切で切られていた。この丘も佐々木館の一部で稲荷館(稲荷曲輪)と称されている。稲荷館の堀切は耕地化していたが、良く見ると耕地化していない部分が二重堀となっており、往時はこの堀切全体が二重堀であったように見受けられた。
稲荷館の丘に登ってみるとこちらもなかなかの広さで、現在は主に畑となっていたが、東側に向うと、またしても堀切で郭が切られていた。この堀切より東側は笹薮と植林地?のようになっており、北側には2、3段の腰郭が確認できた。
稲荷館から一度車道へと降りた後、東側に回りこんで台地の東端の麓へと移動したが、ここには曲輪の名称の由来と思われる太郎稲荷神社が腰郭跡にあった。なお、神社の入り口の近くには「佐々木ヶ池」の誘導標識(0.2km)があり、一応特別な場所として自治体にも認識されているようであった。
11月の三連休は久々に八戸方面へと遠出してきた。北東北はそろそろ雪が降ってもおかしくないので、雪が降りやすい日本海側を避けたつもりだったが、当日は宮城県を越えた時点で一気にあたりは雪景色となり、今回の旅の見直しを迫られることになった。雪の中でどこに行こうかと頭を悩めているうちに盛岡を越えて二戸市に至ったが、不思議なことに二戸市では雪が降っておらず、周囲の山々も雪の無い晩秋の景色が広がっていた。
二戸に立ち寄ってまず向ったのは米沢(まいさわ)の地で、目指すは斗米駅の真西に見える台地にある佐々木館跡である。佐々木館は鎌倉時代に御家人の佐々木盛綱の子孫(一族?)が下向して居館とした場所で、後に佐々木氏は南部氏の家臣となって代々続くが、九戸の乱の時に九戸政実の軍勢の奇襲を受けて落城したという。この時に佐々木氏の北姫は城の水堀に身を投げ、その短い生涯を終えたという。
台地の斜面はかなり切り立っており、登り口は台地の南の神社付近と背後の堀切方面に着いていた。とりあえず、台地の背後から車道沿いに登るが、ここの堀切はかなり幅が広く、背後の切り離した台地にも切り込みを入れる等なかなか立派なものだった。台地の上もなかなか広く、削平地には現在は民家が数件立ち並んでいた。台地の上には土塁らしきものがあったものの、これといって目立った遺構は見られなかった。
台地の上を散策した後は堀切に降りて北に進み、佐々木ヶ池へと出た。この池が北姫が身投げした場所であるが、現在は砂防ダムのようになっているため、往時はもう少し小さい池だったのだろう。この池の西側の丘が池に突出たような地形の場所を散策したが、この部分は雑木林であるものの、人工的に作られた溝や土塁のようなものがあり、なぜこんな地形になったのか非常に気になる部分だった。なお、佐々木館の説明板は池の砂防ダムのようになった部分の北側にあった。
佐々木ヶ池一帯の沢を利用した堀を抜け、北側の台地へと登ったが、ここも前述の丘同様に立派な堀切で切られていた。この丘も佐々木館の一部で稲荷館(稲荷曲輪)と称されている。稲荷館の堀切は耕地化していたが、良く見ると耕地化していない部分が二重堀となっており、往時はこの堀切全体が二重堀であったように見受けられた。
稲荷館の丘に登ってみるとこちらもなかなかの広さで、現在は主に畑となっていたが、東側に向うと、またしても堀切で郭が切られていた。この堀切より東側は笹薮と植林地?のようになっており、北側には2、3段の腰郭が確認できた。
稲荷館から一度車道へと降りた後、東側に回りこんで台地の東端の麓へと移動したが、ここには曲輪の名称の由来と思われる太郎稲荷神社が腰郭跡にあった。なお、神社の入り口の近くには「佐々木ヶ池」の誘導標識(0.2km)があり、一応特別な場所として自治体にも認識されているようであった。