8月14日お盆の寄道紀行・その5(青森県青森市)2012年08月23日 23時33分18秒

堤浦屋形(古舘)を散策した後は、荒川沿いに上流に向かい、南部光康(堤弾正光康)が古舘の次に居城とした横内城へと向かった。青森の市街地は今でこそ発展しているが、当時は沼と湿地帯が広がるひと気もまばらな地で、光康も堤ヶ浦の寒村にとりあえず拠点を置いたが、すぐに横内の定額寺があった場所に居城を築いて移り住んだようだ。当時は横内の集落の方が発展していたのである。


常福院
とりあえず、城跡の目印となる常福院へと向かった。山門のある場所はまだ城外だが、ここに横内城の説明板がある。門を潜って薬師堂を過ぎた先が城内で、薬師堂の裏にはハッキリと堀の跡が見えた。なお、薬師堂向かいの竜神池も堀跡で、その先にも城跡南側の堀がしっかり残っているのが確認できた。


朝日御前の墓標
境内には堤弾正の五輪の塔と、朝日御前の墓標があった。朝日御前は堤孫六則景の妻で、堤弾正左衛門の母親にあたり、通称は「お福」の方と呼ばれていた。常福院はこの朝日御前が夫の弔いのために仏門に入り頂いた戒名から取った院号で、寺号は同様に戒名から取って安養寺としたという。


横内城堀跡
この城跡で一番の遺構はやはり堀の跡で、散策した限りでは大部分が何らかの形でハッキリと残っており、完全に埋まってしまっているのは寺の参道を横切っている部分くらいだった。ただ、当時の絵図を見ると、城跡は単郭ではなく南北の郭に別れていたようだが、この郭の間の部分は民家などの敷地になっていてちゃんと確認することはできなかった。

8月5日川越散策・その2(埼玉県川越市)2012年08月06日 23時54分28秒

川越城を散策した後は霞ヶ関方面へと移動して、上戸にある河越館跡へと向かった。

常楽寺
とりあえず常楽寺を目印にして移動したが、寺の前にあった標柱は既に文字が消えかけてただの木柱になりつつあった。なお、寺自体も館跡の一角で北と東に土塁が残っていた。


河越館跡と土塁
河越館跡の西側のゴルフセンターとの間にもかなりハッキリ土塁が残っており、こちらは上杉氏時代に造られたものだという。


河越館の堀
河越館跡の一部は整備されて史跡公園となっており、堀の跡と井戸や塚などが復元されていた。河越氏の時代は方形の屋敷のような区画が碁盤の目のように広がっており、それぞれの区画の間を道が通っているような感じだったらしい。


河越館跡の塚
言い回しが正しいのか少し悩むが、塚(とされるもの)が復元(?)されている。史跡公園の中ではやはりこれが一番の謎の施設だろう。なお、時代によって館跡の構造や規模は変わっており、現地の説明板を見ても結構ややこしい造りだった。

6月30日黒羽城散策と紫陽花見物(栃木県大田原市)2012年07月01日 17時44分57秒

まだ梅雨明けしていないのに土曜日はタイミング良く晴天に恵まれたため、少し足を伸ばして栃木県の黒羽城址へと出かけてきた。目的はこの城の名物である紫陽花である。

ちなみに紫陽花まつり期間中は、那須塩原駅から土日に無料のシャトルバスが出ていることもこの場所に行く理由の決定打となった。(くろばね紫陽花まつりの公式サイト参照)


黒羽城の紫陽花
城址の紫陽花は場所によって多少バラツキがあるものの、ほぼ満開といってもいいくらい綺麗に咲いていた。画像は本丸跡の土塁付近の紫陽花。


復旧工事中
黒羽体育館隣の広場ではまつりのイベントが行われている一方、城址の一部では災害復旧も行われており、本丸や二の丸(北城)の一部は立ち入り禁止の場所も多かった。


立ち入り禁止
特に本丸の西側は土塁の上も模擬櫓も封鎖されており、なぜか土置き場にもなっていたりして奥の紫陽花が見れない等、なかなか困ったことになっていた。日当たりの関係で本丸東より本丸西の紫陽花が綺麗だっただけに、これはなんとも残念だった。


本丸南堀の紫陽花
本丸の南側にはかなり深い堀があり、ここは堀の斜面に紫陽花が植えられていて、まさに紫陽花の谷と言った感じの光景が広がっていた。画像では自分の未熟から凄さが表現できていないが、肉眼では素晴らしい見所だった。


廊下橋跡
内堀は本丸をぐるりと囲んでおり、東側は南より深くは無いが、大手道はこの堀をまたいで本丸へと入るように出来ていた。画像の橋がある場所には当時の絵図を見ると廊下橋が架けられており、渡った先が本丸大手門跡の枡形となる。なお、城の絵図は南三の丸跡の「芭蕉の館」で見ることが出来る。


三の丸の水堀
内堀はそのまま東三の丸跡の中門の堀にも繋がっており、この付近では水堀に変わっている。


芭蕉の館
南三の丸跡には今は「芭蕉の館」という資料館が建てられており、一見すると松尾芭蕉の資料館のように感じるが、実際は半分が松尾芭蕉の展示で、もう半分は黒羽城と大関氏に関する展示であった。実質は”黒羽歴史資料館”である。なお、「芭蕉の館」から城址公園(本丸方面)へと行く道は画像のように館の下に潜って馬出の堀切に出てから階段を登る構造になっており、史跡とは関係無い造りだが、妙に凝った構造になっていた。


浄法寺邸
「芭蕉の館」から散策路を通ってさらに南に行くと芭蕉公園がある。ここら辺が三の丸の南端で、車道の付近には黒門跡があった。この公園も紫陽花が植えられてなかなか綺麗だったが、公園の中心には浄法寺邸なる休憩所があった。松尾芭蕉が浄法寺図書(俳号は桃雪)から歓待を受けた場所ではあるが、建物は当時の建物では無いという。ちなみに浄法寺と聞くと、自分は南部領二戸の浄法寺を想像してしまうが、栃木県の那珂川町にも浄法寺があるので、この浄法寺図書は後者の出身なのだろう。


大沼家の門
芭蕉公園より少し降った南側の台地がかつての武家屋敷跡で、当時の絵図とほぼ同じ道を車道が通っているのが面白い。武家屋敷の建物自体は残っていないが、西側は土台と敷地は当時と同じではと思われる構造になっており、現在小学校が建っている場所には武家屋敷の大沼家の門が移築されていた。


大雄寺
武家屋敷跡と三の丸跡の間の高台にあるのが城主の大関氏の菩提寺であった大雄寺で、ここには絵図に描かれた風景とほぼ同じ光景が広がっていた。寺の本堂が茅葺屋根で、寺の総門と周囲の建物が連結した回廊構造になっているのもなかなか見られないもので、なんとも見事な景観であった。


八幡館の空堀
最後に城址北側の八幡館の郭を見て周ったが、ここら辺は絵図では省略されているものの、実際は空堀で区切られた郭が連結する構造になっており、予想以上に広く遺構が多い場所だった。ただ、現状は畑や雑木林になっており、散策はかなりやり難かった。

5月27日置賜遠征・その9(山形県高畠町)2012年06月05日 23時52分44秒

洲島を散策した後は再び最上川を越えて高畠へと戻り、伊達政宗の師匠として名高い虎哉宗乙が住職を務めた資福寺跡へと向かった。ちなみに資福寺は廃寺になったわけではなく、伊達政宗の転封と共に仙台に移転し、現在は仙台市の北山に鎮座している。

伊達輝宗、遠藤基信、あと儀山公の墓所
寺は移転して無くなったものの、伊達輝宗と殉職した遠藤基信の墓所が残されている。少し話がややこしくなるが、9代目の方の伊達政宗の墓もある。独眼流は17代目の伊達政宗。


資福寺跡
寺の跡地は住宅地や畑となっており、ここの名産?なのか蕗畑が多かった。畑の中に数本の木と共にある祠が観音堂跡で、資福寺の本堂はその隣の畑にあった。現状は観音堂跡以外に目印になるものは無かった。


資福寺の堀跡
資福寺はかつて資福寺館と呼ばれ、武士の館に似た構造をしており、2つの郭の周囲を二重に水堀が囲んでいる縄張りを持っていた。現在も2つの郭の間に掘と土塁の一部が残っており、外掘もハッキリと残っていた。


夏刈城跡
資福寺跡を見た後は、すぐ側の夏刈城跡へと向かった。夏刈城は政宗館とも呼ばれ、文字通り幼少の政宗がこの館から資福寺へと通って勉学に励んだという。館は川沿いの水堀で囲まれた単郭の平城だったが、現状は圃場整備でごらんの有様となっていた。少しは堀跡が窪んでいるのではないかと期待もしてみたが、全く確認できないほど均されていた。


夏刈熊野神社
余談になるが、城跡の目印としては熊野神社を目指すと判り易い。画像の左奥の水田が城跡である。

5月27日置賜遠征・その7(山形県高畠町)2012年06月03日 01時45分09秒

2日目は米沢盆地中央の平野部を中心に周ろうと思い、まず米沢市と高畠町の境界にある糠野目へと向かった。ここには遠藤氏関連の城と思われる糠野目館があり、現在は耕福寺や山王神社の境内となっている。


耕福寺と山王神社のある丘
耕福寺の参道から見ると丘のように見えるが、ここの参道が堀跡を通っているために落差でそう見えるのであって、実際はあまり高低差は無い。逆の北側から境内を見るとそれがよく判る。


山王神社
耕福寺のある場所が主郭と聞いていたが、実際に訪れて見ると隣の山王神社の方が高くなっていた。しかも、この神社の社殿は高床式になっており、参拝する場所まで登ってから振り向くと、いつもと違う目線の高い景色を見ることができた。耕福寺側も見て周ったが、平場が確認できただけで特にこれといった遺構は見られなかった。


最上川水運の始点
ちなみにこの城のある糠野目郷は江戸時代には最上川水運の基点の港町であり、船で運ばれてきた貿易品はここで陸揚げされて米沢の街へと運ばれた。現在、船着場の説明板があるが、近代の河川工事によって川湊の面影は残っておらず、どこにでもある堤防に囲まれた川の光景だった。