10月14日三連休道南函館江差の旅・その6【勝山館】(北海道上ノ国町)2013年10月25日 02時46分02秒

花沢館跡を散策した後は、花沢館の後に武田信広によって築かれた勝山館跡へと向かった。城跡には上ノ国八幡神社と上國寺の間の山道から登ったが、入口に看板が無ければ城跡に続く道だとは思わないような住宅の隙間にあった。


荒神堂跡
しばらく山道を登ると荒神堂跡という石積の土台や階段の跡がよく残る場所に辿り着いた。ここは謀反を起こして討たれた蛎崎基広の怨霊を鎮めるために建てられた堂の跡だという。


虎口跡
荒神堂跡から少し登ると二の郭の虎口跡に辿り着いた。画像では階段の道が正面に向かって伸びているが、これは後から造られた道で、本来の道は画像真ん中あたりから左上に向かって延びていた。


勝山館主郭大手口
二の郭跡に入ると急に木々が減って頭上に青空が広がったが、何よりも二の郭から主郭を見た時の威圧感がなんとも衝撃的だった。主郭には柵が復元されており、主郭と二の郭の間には切岸と二重掘があるため、これがなかなか見事な遺構であった。


勝山館主郭大手口から城下方面を見た景色
画像は主郭の虎口から逆に二の郭方面を見た景色。堀には復元した橋が架けられているが、当時の橋はもっと簡素なものだったと思われる。


勝山館主郭内部
主郭内部は緩やかな斜面で、発掘された建物跡が平面復元されており、城主の居所が比較的低い位置にあることや、郭の中心に大通りがあって中ほどに四足門があったこと等々、興味深い遺構が色々あって印象深かった。


勝山館八幡跡
主郭内の最も高い場所には館八幡跡があり、現在麓にある八幡神社の前身が当時はここにあったようである。


勝山館搦手口
主郭の大手口も見事だったが、画像の搦手口もそれに劣らず見事な遺構を残しており、二重の堀切で背後の山と城跡を切り離しているのがよく判る構造だった。正直なところ勝山館にこれほどハッキリした遺構があるとは思っていなかったので、思いのほか色々楽しむことが出来た。


勝山館水の手
ちなみに主郭内に井戸跡もあったが、搦手口から出て沢に降った場所には樋を使った水の手があった。ここには井戸という表記もあったが、どちらかというと沢の水を貯めておく貯水池のようなものであった。

10月14日三連休道南函館江差の旅・ラスト【夷王山など】(北海道上ノ国町)2013年10月26日 22時28分08秒

勝山館搦手口から出てそのまま山側へ進むと墓所の跡となるが、遺跡の図を見る限りでは勝山館の背後はあらゆる時代の墓の跡があり、霊的加護をもって城の背後を守るような縄張りの考えで勝山館が築かれたのではとも思える。


勝山館ガイダンス施設
墓所付近からガイダンス施設行きの看板に従って小道を登ると勝山館ガイダンス施設へと辿り着いた。内部はいわゆる資料館で、この周辺の墓所の発掘調査結果や勝山館関連の展示があり、勝山館の全体像のジオラマはなかなか参考になった。あと、発掘調査結果から当時の勝山館内部でアイヌが生活していたのが判明したとあり、もしかすると武田信広の家臣の中にも普通にアイヌが居たのではないかというのはなかなか興味深い内容だった。


勝山館から見た夷王山
勝山館跡から沢を挟んで隣には夷王山が聳えており、館跡散策中もふと山頂の鳥居が視界に入るため気になっていたが、実際にここは城の守護神的な特別な山で、武田信広の没後に霊を祀った場所であるという。"夷王"というのは要するに蝦夷地(現在の北海道)の主という意味で、後に蝦夷地唯一の藩である松前藩の祖となった武田信広の事を指しているのだという。


夷王山からの景色
夷王山は草地と低木に覆われているため視界が良好で、山頂からの景色は360度パノラマの絶景であった。画像だと判りづらいが、中心付近の森の中に勝山館跡がある。画像奥に見えるのが上ノ国の街。なお、画面外にはなるが、前日に訪れた江差の街や鴎島もここからハッキリ見ることができた。


夷王山の頂の神社
山頂の夷王山神社は風雪避けの分厚い土塁で囲まれており、まるで穴の中に埋まっているような感じだった。特に説明板などは無かったが武田信広を祀っているそうなので氏神の八幡神社と同じ様式だろうと思う。


上之國八幡神社
その八幡神社(上ノ国八幡宮)は現在は館跡の麓に鎮座しており、明治の頃にここへと移されたとある。画像に見える拝殿のさらに奥にある本殿は1699年に造られたことが判明しており、文化財にも指定されている。つまり、勝山館跡が廃城になった後も神社は館跡に祭られており、江戸時代の中頃には本殿が建て替えられたのだろう。その後、明治になって現在地に移されて新たに拝殿が建てられたということになる。


檜山奉行所跡
なお、遺跡図を見ると神社脇の丘の上に檜山奉行所があったことがわかる。奉行所は松前藩の役所で、檜山西郡の行政の中心だったようだが、江戸時代の中頃に江差が発展したため、ここから江差へと奉行所が移されている。丘の上には神社裏から登れそうだったが、あまり収穫は無さそうだったので確認はしていない。