1月2日奥羽古城散策更新 ― 2011年01月02日 00時32分29秒
奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
新年あけましておめでとうございます。
ということで、新年一発目の更新では昨年の伊南遠征の残りの城の久川城と中山城の2つを追加しました。他にも立ち寄った城はありましたが、小塩館(馬場館)はイマイチ構造が良く判らなかったので登録は見送りました。木伏城については入山禁止で結局登ってないので登録は見送りましたが、入山禁止の情報は上げておいた方が良いかもしれないのであとで追加するかもしれません。
追加した久川城については自分が見てきた中では会津でも指折りの遺構が残っていたので、一押しのおススメな城跡です。ただ、麓の資料館については結局閉まっていたため、展示物を確認できなかったのが唯一の心残りでした。中山城については神社のある場所が城跡で、現状からはいわゆる単郭の居館だったと想像されますが、神社については由緒などがさっぱり判らなかったのでいつからここに祀られているかは謎です。
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
新年あけましておめでとうございます。
ということで、新年一発目の更新では昨年の伊南遠征の残りの城の久川城と中山城の2つを追加しました。他にも立ち寄った城はありましたが、小塩館(馬場館)はイマイチ構造が良く判らなかったので登録は見送りました。木伏城については入山禁止で結局登ってないので登録は見送りましたが、入山禁止の情報は上げておいた方が良いかもしれないのであとで追加するかもしれません。
追加した久川城については自分が見てきた中では会津でも指折りの遺構が残っていたので、一押しのおススメな城跡です。ただ、麓の資料館については結局閉まっていたため、展示物を確認できなかったのが唯一の心残りでした。中山城については神社のある場所が城跡で、現状からはいわゆる単郭の居館だったと想像されますが、神社については由緒などがさっぱり判らなかったのでいつからここに祀られているかは謎です。
2010年最後の訪城(青森県野辺地町) ― 2011年01月05日 01時00分03秒
【野辺地城】
さすがに12月はどこにも行けなかったのが悔しかったので、30日に帰省ついでに野辺地城に立ち寄って着ました。思いのほか雪が無かったので、思いつきで立ち寄ったのですが、十数年ぶりの訪城で昔は見逃していた大きな空堀等が確認できたのが嬉しい収穫でした。さすがに昔あった「野辺地城跡」の木の標柱は朽ち果てたようで、以前より巨大な木の標柱に替わっていました。表記も江戸時代の「野辺地代官所」に変更になっていましたが、こっちのほうが一般人にはとっつきやすのかもしれません。
さすがに12月はどこにも行けなかったのが悔しかったので、30日に帰省ついでに野辺地城に立ち寄って着ました。思いのほか雪が無かったので、思いつきで立ち寄ったのですが、十数年ぶりの訪城で昔は見逃していた大きな空堀等が確認できたのが嬉しい収穫でした。さすがに昔あった「野辺地城跡」の木の標柱は朽ち果てたようで、以前より巨大な木の標柱に替わっていました。表記も江戸時代の「野辺地代官所」に変更になっていましたが、こっちのほうが一般人にはとっつきやすのかもしれません。
1月9日初詣と秦野・伊勢原散策・その1(神奈川県寒川町) ― 2011年01月14日 02時32分21秒
【寒川神社】
年始は過労と二日酔いで倒れたおかげでどこにも行けなかったが、三連休もまた仕事が入る可能性があったので予定が入れられずに過ごすことになった。それでも日曜日になってやっと自由な時間ができたたので、近場に初詣ついでに小旅行に出かけることにした。
というわけで、2011年の初詣は相模国一ノ宮の格式を誇る寒川神社へと出かけることに決め、お昼頃に付くように移動を開始した。この時は正月じゃないから人はそんな居ないだろうと思っていたが、それは見事に間違いで、駅から神社へ参拝客の蟻のような行列が出来るほどの混みっぷりだった。
神社の石橋を渡って参道を進むとやがて神門に辿り着くが、なぜかこの門には「ねぶた」が飾られていた。後から調べたところ、これは「干支ねぶた」と呼ばれるもので、寒川神社の毎年恒例の飾りつけのようである。
手水舎で清めていざ門を潜るが、拝殿の前には凄い行列が出来ており、結局ここで並んで待つことになった。まぁ、一昨年行った善光寺御開帳や去年の初詣の京都ゑびす神社に比べれば可愛いものだが、それでもやはり待っている間は退屈でしょうがなかった。
やっとのことで御参りを終えて、毎年恒例のおみくじを引き、そして寒川神社に縁の深い方位除けの御守りを買って帰ることにしたが、方位除けの御守り自体は思いのほか小さい代物ものだった。まぁ、今年は自分は星回りは悪くないので、方位除けは必要ないと言えば必要無いのだが・・・。
年始は過労と二日酔いで倒れたおかげでどこにも行けなかったが、三連休もまた仕事が入る可能性があったので予定が入れられずに過ごすことになった。それでも日曜日になってやっと自由な時間ができたたので、近場に初詣ついでに小旅行に出かけることにした。
というわけで、2011年の初詣は相模国一ノ宮の格式を誇る寒川神社へと出かけることに決め、お昼頃に付くように移動を開始した。この時は正月じゃないから人はそんな居ないだろうと思っていたが、それは見事に間違いで、駅から神社へ参拝客の蟻のような行列が出来るほどの混みっぷりだった。
神社の石橋を渡って参道を進むとやがて神門に辿り着くが、なぜかこの門には「ねぶた」が飾られていた。後から調べたところ、これは「干支ねぶた」と呼ばれるもので、寒川神社の毎年恒例の飾りつけのようである。
手水舎で清めていざ門を潜るが、拝殿の前には凄い行列が出来ており、結局ここで並んで待つことになった。まぁ、一昨年行った善光寺御開帳や去年の初詣の京都ゑびす神社に比べれば可愛いものだが、それでもやはり待っている間は退屈でしょうがなかった。
やっとのことで御参りを終えて、毎年恒例のおみくじを引き、そして寒川神社に縁の深い方位除けの御守りを買って帰ることにしたが、方位除けの御守り自体は思いのほか小さい代物ものだった。まぁ、今年は自分は星回りは悪くないので、方位除けは必要ないと言えば必要無いのだが・・・。
1月9日初詣と秦野・伊勢原散策・その2(神奈川県秦野市) ― 2011年01月15日 06時25分44秒
【弘法山】(東波多野城)
寒川神社に参拝した後はそこから西に移動し、山間の地の秦野へと向かった。前日に確保できた温泉宿があるためだったが、ちょうど宿の側に山城もあったのでここに登ることにした。
東波多野城は東西に繋がった弘法山、権現山、浅間山を縄張りとする山城で、歴史は不明だがその遺構から西側に備えて築かれた城だとされている。弘法山の東側には根小屋の地名が残っているため、城があったのは確かなようだが、少々縄張りが広すぎる気がするため誰が何のために築いたのか気になる場所であった。
山へ登るルートは色々あるようだったが、とりあえず東側の八幡神社より登ることにした。参道を登っていくと尾根に出て、幾つかの道と合流しながら弘法山へと続いていたが、途中の道には平場が散見され、最初は遺構かもと思ったが少々不自然なので近代のものだろうと思われる。
緩やかな登り道は弘法山の中腹から一気に急斜面となり、そこを登りきった場所が弘法山の山頂であった。山頂には寺鐘や御堂があったが、元々は弘法大師が修行のために篭った伝説の場所で、後に寺が建てられたのだという。
山頂は思いのほか普段着の家族連れ等が多かったが、どうやら反対側からは駐車場から散歩程度で登れるためのようだった。確かに見比べてみると斜面の角度が全く違う上に、階段も綺麗に整備されており、苦も無く登れるのが良く判る違いだった。
なお、山頂に辿り着いてから気づいたのだが、ここ弘法山には野良猫が多いのが地味に衝撃だった。しかも、どの猫も人が近づくと距離を取るか逃げるかするため、アップで写真を撮るのもなかなか大変だった。どう見ても飼いならされている気配は無いため、彼らがこの山の上でどうやって生活しているのか気になるものである。
寒川神社に参拝した後はそこから西に移動し、山間の地の秦野へと向かった。前日に確保できた温泉宿があるためだったが、ちょうど宿の側に山城もあったのでここに登ることにした。
東波多野城は東西に繋がった弘法山、権現山、浅間山を縄張りとする山城で、歴史は不明だがその遺構から西側に備えて築かれた城だとされている。弘法山の東側には根小屋の地名が残っているため、城があったのは確かなようだが、少々縄張りが広すぎる気がするため誰が何のために築いたのか気になる場所であった。
山へ登るルートは色々あるようだったが、とりあえず東側の八幡神社より登ることにした。参道を登っていくと尾根に出て、幾つかの道と合流しながら弘法山へと続いていたが、途中の道には平場が散見され、最初は遺構かもと思ったが少々不自然なので近代のものだろうと思われる。
緩やかな登り道は弘法山の中腹から一気に急斜面となり、そこを登りきった場所が弘法山の山頂であった。山頂には寺鐘や御堂があったが、元々は弘法大師が修行のために篭った伝説の場所で、後に寺が建てられたのだという。
山頂は思いのほか普段着の家族連れ等が多かったが、どうやら反対側からは駐車場から散歩程度で登れるためのようだった。確かに見比べてみると斜面の角度が全く違う上に、階段も綺麗に整備されており、苦も無く登れるのが良く判る違いだった。
なお、山頂に辿り着いてから気づいたのだが、ここ弘法山には野良猫が多いのが地味に衝撃だった。しかも、どの猫も人が近づくと距離を取るか逃げるかするため、アップで写真を撮るのもなかなか大変だった。どう見ても飼いならされている気配は無いため、彼らがこの山の上でどうやって生活しているのか気になるものである。
1月9日初詣と秦野・伊勢原散策・その3(神奈川県秦野市) ― 2011年01月16日 00時19分31秒
【権現山】(東波多野城)
弘法山から綺麗に整備された方の階段を下りていくと、弘法山と権現山の間の鞍部に至るが、この鞍部は「馬場道」と呼ばれており、幅広く削平されていていかにも城跡らしい名前だが、実際は村民がここで競馬をして楽しんだことから来ている名称だという。ただ、道の南側に沿って土塁があったり、道の中間に虎口のような場所があったり、北側には腰郭があったりするため、少々気になる構造の場所であった。
馬場道を進み再び階段を登った先が権現山で、山頂には木々の無いだだっ広い空間が広がり、町を見下ろす隅のほうには展望台が建てられていた。この展望台からの眺めは絶景で、街を一望することができ、遠くにはうっすらと霞懸かった富士山も確認できた。
権現山は弘法山と違ってかなり公園としての改変を受けているようだったが、それでもここには弘法山にはなかった東波多野城についての説明があり、調査の結果西側に腰郭が沢山確認できたと記載されていた。事実、権現山の展望台辺りから浅間山に向かう道中の雑木林の中には沢山の階段状の郭を確認することができた。
弘法山から綺麗に整備された方の階段を下りていくと、弘法山と権現山の間の鞍部に至るが、この鞍部は「馬場道」と呼ばれており、幅広く削平されていていかにも城跡らしい名前だが、実際は村民がここで競馬をして楽しんだことから来ている名称だという。ただ、道の南側に沿って土塁があったり、道の中間に虎口のような場所があったり、北側には腰郭があったりするため、少々気になる構造の場所であった。
馬場道を進み再び階段を登った先が権現山で、山頂には木々の無いだだっ広い空間が広がり、町を見下ろす隅のほうには展望台が建てられていた。この展望台からの眺めは絶景で、街を一望することができ、遠くにはうっすらと霞懸かった富士山も確認できた。
権現山は弘法山と違ってかなり公園としての改変を受けているようだったが、それでもここには弘法山にはなかった東波多野城についての説明があり、調査の結果西側に腰郭が沢山確認できたと記載されていた。事実、権現山の展望台辺りから浅間山に向かう道中の雑木林の中には沢山の階段状の郭を確認することができた。