8月1日奥羽古城散策更新2010年08月01日 16時41分11秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

今回は秋田県の項目に八乙女城と長野御役屋の詳細を追加しました。八乙女城は角館ほどではないにしても桜の名所と言える場所で、桜の時期にはおススメな場所です。長野御役屋は御役屋門くらいしか見所が無いものの、長野の街は板塀と水路などが特徴的で、なかなか趣きがあって良かったです。

7月18日京都奈良伊賀の旅・その12(奈良県奈良市)2010年08月02日 01時35分51秒

奈良の大仏
【東大寺大仏殿】

平城宮をぐるりと一周しただけで大分時間と体力を消費したが、せっかく奈良に来たのでホテルに戻る前に名所に立ち寄っていくことにした。まず、向かったのが奈良の大仏で有名な東大寺である。

東大寺の参道へ入るとそこは観光客と鹿が行き来する不思議な場所で、鹿がしかせんべいを持っている観光客を追い回すなど、ここならではの光景が見られたのがなかなか面白かった。ただ、参道が鹿の糞だらけなのが少々困りものだったが、「運が付く」と考えればある意味縁起物なのかもしれない。

南大門を通って進んだ先に中門があるが、この門は閉まっており、内部へは西側の入り口から入るようになっていた。なお、ここから先は料金(大人500円)が必要である。

中門の内側に入るとその先には大仏殿があり、想像していたよりも巨大でなかなか驚かされたが、内部に鎮座する大仏様の大きさにも圧倒されるものがあった。内部は中央に大仏があって、周囲をぐるりと回ることができたが、ちょうど入って右奥には潜ると無病息災になるとして有名な柱の穴があり、ここには大勢の観光客の行列ができていた。自分は時間が時間なので行列に並ぶのはやめたが、係員の方がノリノリで誘導していたため、少々恥ずかしい雰囲気でもあった。

7月18日京都奈良伊賀の旅・その13(奈良県奈良市)2010年08月03日 02時01分06秒

春日大社の鳥居付近
【春日大社】

東大寺を出た後はすぐ近くにある春日大社へと向かったが、既に日暮れのため森の中は暗くなってきており、暗闇に浮かぶ鹿の姿と杜に木霊す小鹿の泣き声がなんともいえない雰囲気を造り出していた。

春日大社は全国の春日神社の総本社で、元々は藤原氏の氏神を祀ったのが始まりという。なお、春日大社を含む奈良公園に鹿が多いのは、鹿が春日大社の神の使いとされていることも関係しているという。

杜の中の参道をひたすら進んでいくと、やがて朱色が映える社が見えてきたが、いざ着いてみると門は硬く閉ざされており、どうやら来る時間が遅すぎたようだった。このまま帰るのもアレなので神社の周りを散策してみると、ちょうど回廊の部分に榎本神社があったのでここで参拝をして引き上げることにした。なお、榎本神社は元々春日野の土地の主だった神を祀っており、春日大社の回廊の一角に祀られるようになった経緯は諸説あるようである。

7月19日京都奈良伊賀の旅・その14(三重県伊賀市)2010年08月04日 00時20分08秒

忍者博物館の永倉
【伊賀流忍者博物館】

連休最終日は以前から一度訪れてみたかった伊賀へと向かった。行き先は伊賀上野城がある上野公園だったが、まず園内に入って向かったのは忍者博物館だった。

入園料を払ってからまず誘導された場所は忍者屋敷で、ここではくノ一の方が屋敷のからくりを順番に実演しており、想像していたよりもよく出来た仕掛けでなかなか面白いものだった。中でも意外だったのは、大事なものは軒先に隠すという仕掛けで、これには感心させられてしまった。

忍者屋敷を見た後は、そのまま家の地下へと降りる通路があり、地下の部分がいわゆる忍者道具などを展示する博物館となっていた。展示内容で一番驚いたのは、いわゆる忍者装束というものが元々は農民の普段着だったということと、いわゆる良く見る黒い装束は史実では使用されていなかったということである。展示内容によると黒い色だと夜に逆に目立つため、実際は濃い青色だったのだという。

地下から出ると永倉の建物があってここも資料館となっていたが、この建物は現存する上野城時代の建物の一つで、移築して内部を資料館として利用しているのだという。この内部もいわゆる忍者関係の展示だが、忍者の武器は実は主に鉄砲で、火薬などの調合技術を盗まれないために忍者屋敷が発展したというのがなんとも意外だった。

7月19日京都奈良伊賀の旅・その15(三重県伊賀市)2010年08月05日 01時14分49秒

伊賀上野城の模擬天守閣
【伊賀上野城】

伊賀流忍者博物館は上野城の外側の郭にあるため、そこから今度は東側の空堀付近の上り坂へと移動し、主郭部分へと向かった。

登った先は上野城で最も高い場所にある郭で、筒井氏の時代の本丸跡らしいが、現在は水道施設と空き地となり隅には櫓台跡があった。ここの郭の内側は石垣で築かれており、ちょうど石垣を解体して調査(修繕?)しているようで工事フェンスやシートなどが張られていたが、なかなか見事な造りだった。

筒井氏の時代の二の丸は藤堂高虎の時代に本丸に改められており、一段低い郭の西側に天守閣の櫓台が現存し、その上に今は模擬天守閣が築かれていた。当時は五層の天守閣だったそうなので、今の模擬天守閣は二層ほど低いことになる。

とりあえず、階段を登った所で入場料を払って天守の中へと入ってみたが、内部は木造で他でよく見るような模擬天守閣とは全く違うものだった。階段も現存天守閣などと同じような角度が急なタイプで、まさに新たに設計したような感じの天守閣で、「昭和の築城」とか「復興天守閣」とか呼ばれる意味が判る造りであった。なお、本物より低いと言っても最上階からの眺めは絶景で、盆地が一望できるのが素晴らしかった。