3月9日奥羽古城散策更新2009年03月09日 03時26分20秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

前回の岩手県に引き続き、宮城県の未更新分の更新です。今回は宮城県に古川城、青塚城、小野館、葉山城、大口館、星沼館、松山城、上野館、高清水城、尿前関を追加し、名生城、岩出山城、新田柵、桑折城を新フォーマットに更新。

追加した城のうち、葉山城と大口館については消化不良に終わっているので、現状と遺構についての説明が曖昧です。いつか必ず三条山には登りたいと思う。

そして新フォーマットに更新した城については全て市町村合併によって大崎市になったため、所在地の住所を変更し、アクセス情報を追加したものです。よって感想や情報は以前のままになってるため、現状とは大きく異なるかもしれません。桑折城のアクセス情報には当時、仙台から三本木までバスで行った時の情報を書こうと思ったら、今の宮城交通の仙台駅発のバスに三本木に行く便が見当たらなかったため、不明となっています。数年前の話だから、もう路線廃止になったんだろうか・・・。

3月21日春分遠征・その1(福島県いわき市)2009年03月24日 18時26分43秒

飯野八幡の改修中の門
■春分遠征

南関東では梅も散ってしまったが、そろそろ東北にも花の時期が訪れているだろうと思い、東北地方で最も早く春が来るいわきへと行ってきました。

【飯野八幡宮】

飯野八幡宮は前九年の役の頃から続く由緒ある神社で、元々はいわき駅の北に接する丘の上(見物岡)にあったが、1602年に磐城平城を築くために現在の場所に移された。

岩城の歴史にも深く関わる神社だけに、ぜひとも一度拝んでおきたかったが、訪れて早々に修築中の防壁に囲まれる門を見てガックリしてしまった。それでも社殿は無事(?)でちゃんとお参りはできたのは幸いだった。

3月21日春分遠征・その2(福島県いわき市)2009年03月25日 22時36分47秒

道路のために埋められた堀切跡
【高月館跡】

高月館は丘陵の北端部を堀で割って築かれた飯野氏の居館跡であり、江戸時代には飯野八幡宮を移して磐城平城を築いた酒井氏によって主郭部以外を召し上げられ、酒井氏一族の館として利用されたという。それでも飯野氏は高月館の残った主郭部への居住を許され、今も飯野八幡宮宮司を勤める飯野氏の住居となっているのだから、歴史というものは面白い。

いざ館跡を散策してみたものの、主郭以外の郭は今は高校の敷地になっており、散策の余地は無い。さらに主郭部は前述の通り、個人宅となっているためさらに厳しい。下手をすれば通報されるだろう(苦笑)

しかし、それでも高校の校門前の堀切跡や、主郭とそれより南側の郭(現:校庭)を隔てる堀、そして土塁がしっかり確認できた。ちなみに主郭部跡の個人宅の前には「北白川宮能久殿下※」の訪問記念碑があり、こんな場所にも皇族が訪れていたことに驚かされた。

※戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟によって盟主に担ぎ上げられて、東武天皇とまで称された御方らしいです。

3月21日春分遠征・その3(福島県いわき市)2009年03月26日 22時41分59秒

梅の花と浄土式庭園
【白水阿弥陀堂】

飯野八幡宮周辺を散策した後は、いわき市街地を離れて内郷地区の白水阿弥陀堂を訪れた。白水阿弥陀堂は奥州藤原氏と岩城氏の関係を語る上で外せない場所であり、その浄土式庭園は平泉の毛越寺の庭園に通じるものがある。

阿弥陀堂は三方を山に囲まれた庭園の池に半島状に突出た場所に建っており、内部の観覧は有料(400円)となっている。少々こじんまりとしているがこれでも立派な国宝の一つである。

庭園の周辺は公園感覚で散歩できるので、当然ながら一周してきたが、所々にある梅の花がなかなか綺麗だった。(白い花の梅は少々時期を過ぎていたのか散り始めていましたが・・・) また、池の囲いの上で日向ぼっこをする亀や、岩の上で羽を休める白い鳥(鷺?)など、日常とは違った風景が見れてなかなか有意義だった。

3月21日春分遠征・その4(福島県いわき市)2009年03月27日 02時03分22秒

金毘羅神社本殿
【金毘羅神社(上船尾館跡)】

金毘羅神社は上船尾氏の居館跡のある丘陵の沢状地形の奥にある神社で、縁起までは判らなかったが、諏訪神社や天満宮、恵比寿神社も合祀され、さらに境内に幼稚園まであるという思いのほか規模の大きな神社だった。特にU字谷の奥に鎮座する金毘羅神社の本殿の周囲は屏風のように切り立った崖で、これには少々気圧されてしまった。

神社境内からは丘に登れるような雰囲気じゃないので、一度神社を出て周囲を散策した所、東側の寺院の近くから丘陵に上る道があったので登ったが、残念ながら丘の上には何やらネットが張ってあって侵入を拒んでいるようだったので深入りはしないで退散した。よって遺跡資料にある堀切などは発見できず、郭跡が確認できたのみだった。