6月1日上山温泉・河北紀行(山形県上山市・河北町)2008年06月04日 00時49分21秒

高楯城から見たスカイタワー41
仕事が落ち着いてやっと週末ゆっくりできそうだったので、湯治も兼ねて山形の上山温泉に行ってきた。

5月31日はずっと雨模様だったため上山まで移動して、そのまま本日の宿の有馬館へ。温泉入って満喫し、二度目の風呂上り後に明日の予定を組み立ててた所、うっかり寝落ちしてしまった。

翌日の6月1日は雨かと思ってたところ、朝から晴天に恵まれたため、思い切って虚空蔵山(高楯城)に登ることにした。東空掘方面から侵入し、城跡の全体図がある場所から北平(三の丸)を目指したが、山道が笹に覆われて郭も藪化していたため、諦めて亀岡山参道から登ることにした。

参道は反時計回りに斜面を登り、さっそく竪堀を横切るが、この竪堀が麓の北平1号空掘と繋がってるようである。無数の蜘蛛の巣と前日の雨で濡れた道や草木に苦戦しながらさらに登っていくと、中腹あたりに大きな木が見えた。どうやらこれが神代杉らしく、根元には祠があった。ここにも竪堀があり、これも北平3号空掘と繋がってるようである。

神代杉からすぐ上に千本杉の大木があり、この上に明確な平場があって、ルート柱が立っている。ここから色々道が分かれるが、北平方面は道がわからないほどの藪で、白土平(二の丸)方面はなんとか行けそうだったが、今回は諦めて本丸までの参道ルートを通ることにした。

本丸ルートは無数の腰郭を通って延びており、急斜面を登っているうちに木々の間から上山の街が見えてきた。山頂の手前にはデワノハゴロモモクレンという日本でも3本しか無いらしい木があり、柵で囲われていた。

山頂に着くと青空と本堂と鐘付堂が出迎えてくれたが、何やら巨大な蜂が数匹飛んでいたため、ビビって進めないで居た所、たまたま後から登ってきた地元の方に刺さない蜂だと教えてもらったため、なんとか本丸を散策することが出来た。(※家に帰ってから調べた所、ミツバチの一種のクマバチという蜂のようで。巨大で羽音が凄いが、刺さない蜂らしい。)

山頂からの眺めは素晴らしく、上山の高層ビルのスカイタワーが眼下に見える様子はなかなか良かった。また山頂で鐘を突くのもなかなか乙なものだった。

虚空蔵山から下山後は上山の武家屋敷を見て周り、その後上山城へ。実は今回で二度目の訪問(過去のデータはトラブルで消失)のため、軽く周ってみたが、二の丸の南側がかなり削れていた以外は7年ほど前に訪れた時とあまり変わっていなかった。

上山城を見て周った後は冷たいラーメンが食べたくなったため、北山形へ移動したが、困ったことに北山形の栄屋分店は休業日だった。山形市内の栄屋本店へ移動しようと思ったが、結局時間を浪費しそうだったため、そのまま北上して河北町まで移動した。

河北町では冷たい肉そばが名物であり、一寸亭本店で冷たいとりそばを味わった。(※冷たい肉そばとは、せいろやぶっかけではなく、温かい肉そばそのままの外見で、スープを特殊に冷たくしたもの。)

腹ごしらえの後はそのまま谷地城の跡を見に行ったが、土塁の上に勧請された三社宮以外は市街地に埋没して全く遺構が見られなかった。八幡宮の西側の水濠は説明によれば「谷地城の堀をイメージして造った」そうなので、厳密にはそこに堀があったかすら怪しいものである。

谷地城を見た後は南下して溝延城に行きたかったが、時間計算上横浜に帰るためには厳しかったため、今回は諦めることにした。

6月6日奥羽古城散策更新2008年06月06日 03時05分30秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

今回は関東地方の埼玉県に鉢形城、菖蒲城、茨城県に龍ヶ崎城、馴馬城、群馬県に館林城、金山城、東海地方の愛知県に田原城、静岡県に沼津城、泉頭城を追加。

奥羽以外の追加は実に1年ぶりです。そして今回追加したのは関東と東海だけなので、まだ甲信越や九州の分が残っています・・・。なお、群馬藤岡行った時の城が1個足りませんが、攻略失敗と判断して掲載は止めました。あと、栃木の宇都宮城に関しては近いうちに復興後と差し替えます。

他はトップ絵を山形県上山市の高楯城の中腹で撮った祠に差し替え。上山城の菖蒲の絵という候補もあったんですが、なんとなく初夏の山っぽい前者にしました。

最後に履歴を簡素化。二度手間のようなのでリンクは外しました。さらにスタイルも単純化。しばらく様子を見てからリンクは復活するかもしれません。

6月14日村山左沢紀行・前編(山形県村山市)2008年06月18日 01時57分25秒

バラ園から見た楯岡城(東楯山)
まず始めに岩手宮城内陸地震の被害に会われた全ての方に心からお見舞い申し上げます。

今回も先々週同様に週末に山形へと行ってきたが、初日は件の地震に間接的に巻き込まれ、新幹線の車内に軟禁状態で午前中は何もできずに過ぎてしまった。

結局、いくつかスケジュールを削り、メインの目的地である村山の東沢公園へと着いた時には午後2時を回っていた。東沢公園は楯山と鷹返山の間にあるバラ園で、ちょうどバラが満開なため大勢の人で賑わっていた。これで天候が曇りでなければ良かったのだが、ずっと安定しない天気だった。バラ園はバラの種類が多彩でカラフルだが、なんといっても様々なバラのいい臭い、変な臭いが特に印象に残った。

バラ園で花を撮ったり、バラソフトを食べたりして楽しんだ後は、大沢貯水池の登山口から楯山へと登った。まず、ある程度上ると東楯山の東端にあるお伊勢堂の平場に着く。ここからさらに進むと石切場の脇を通り、道が狭く、落ちたら無事では済まされないルートが続いた。東楯山頂上は一応楯山では最も高い233mだが、木々に覆われて眺めは最悪だった。なお、東楯山はほとんど急崖だらけで郭は頂上とお伊勢堂くらいにしか見当たらなかった。

東楯山から尾根沿いに進むと、中楯山に着くが、ここから堀切や切岸、階段状の郭跡といった城跡らしい遺構が見られ、頂上の本丸跡もなかなか広さだった。中楯山は楯山では最も低い頂上だが、近世楯岡城の詰めの本丸はここだという。ここでちょうど地元の人に出会い、よくカモシカがここに出ることを聞いた。街に近いので熊はいないだろうと思っていたが、カモシカと猿は出るらしい。

中楯山を過ぎてさらに鞍部を進むと西楯山に着くが、ここの郭間の切岸は中楯山よりも高く、なかなか迫力があった。頂上は中楯山や東楯山と違ってよく整備されており、展望台もあって眺めが絶景だった。ここが最も古い楯岡城の中心であり、後に中楯山に移ったという。なお、ここには第二次世界大戦中の監視哨の遺構もあり、一見すると井戸に見えるが、当時はここに人が入って監視?していたのだという。

西楯山を越えてさらに西へ階段状の郭を進むと、急に道が無くなった。どうやらこのルートは人気が無く、人が通らないため、草に覆われてしまったらしい。草の中を進むと切岸に出るが、ここが問題らしく、チェーンを使って上り下りしないといけないようである。さすがにここを降りることは可能だが、降りた先が草に覆われてる状態であり、しかも何かあったら戻るのが面倒なため、山頂へ折り返し、西楯山と中楯山の間の七曲口から下山することにした。なお、この七曲には途中に祠があったり、石積みがあったりしたので、当時の登城ルートなのかもしれない。

楯岡城を一通り散策した後は山形市内へ引き返し、本日の宿へと向った。

6月15日村山左沢紀行・後編(山形県大江町・寒河江市・中山町・山辺町)2008年06月21日 13時24分46秒

左沢城三の丸跡からの眺め
山形市内のホテルを出た後は、左沢線の終点の左沢まで移動し、第一目的地の左沢城へと向かった。(※ちなみに左沢は「あてらざわ」と読みます)

線路脇の民家の小道から入り、整備されているものの利用者が少なそうな登城路を登った先は三の丸跡で、今は西側は少年自然の家の敷地となっているが、東側は日本一公園として整備されていた。三の丸跡の東端には東屋があり、ここから城下町と最上川が見渡せ、なかなかの絶景だった。当然、観光客などにも人気のスポットらしく、団体客やSL撮影目当てと思われるカメラマンなどが、狭い敷地に溢れていた。

三の丸跡東端から二の丸跡へ続くと思われる道があったが、明らかに降りたら登るのが大変そうだったので、二の丸は諦めて、三の丸中央の最も高い場所へと登った。三の丸中央の丘は2段ほどの腰郭があり、頂上は狭く延びた郭となっている。

三の丸から北側には谷を隔てて本丸があるが、三の丸北端部に「立ち入り禁止の看板」があって、どうやら本丸跡も私有地らしいので諦めて山を降りて町に戻ることにした。

町に戻った後は街中にある小漆川城を見に向った。正直なところ、10年で廃城となった平城と聞いていたので期待していなかったのですが、外堀の小漆川や月布川は小川というより渓谷に近く、城跡の南北と東が川で囲まれ、なかなかの要害に驚かされた。唯一の陸続きの西側には百間堀があったそうだが、残念ながら埋まっていて確認できなかった。城内は今は民家と畑になっており、本丸や二の丸の名残も同様に確認できなかった。

小漆川城を見た後は大江町役場の近くにある「そば処やまと」でおろし肉そばを食べたが、これがなかなか歯ごたえがあるそばで美味かった。昼食を済ませた後、左沢駅へ向ったが、ちょうどSLが停車しており、小さな駅が大勢の人で賑わっていた。

SLで盛り上がっている左沢を後にし、今度は寒河江市内の柴橋へと向った。柴橋の段丘の上には柴橋楯跡があるのだが、残念ながら遺構は見あたらず、アパート脇にひっそりと城址碑があることしか確認できなかった。地形から見て段丘の端に築かれた南を見渡す館だったのだろうと思われる。

柴橋楯を確認した後は寒河江市から中山町へ移動し、長崎城跡を見に行った。一応、本丸跡にあったとされる大銀杏は確認できたものの、輪郭式平城だったという面影は全く無く、今は完全に町に埋もれてしまっていた。

長崎城を見た後は山辺町へと移動し、高盾城と山野辺城を見に向った。まず先に向った高盾城は、丘の頂上の本丸跡に天満宮があり、南側(二の丸跡か?)が果樹園となっていた。丘の麓は住宅地になっており、三の丸の外周に堀が巡っていたというのもどこなのか、さっぱりわからなかった。

高盾城を見た後は、すぐ南にある山野辺城を見に向ったが、こちらも全体的に町に埋もれてしまっており、山野辺消防団本部敷地となっている本丸跡が周囲より高くなっている等の縄張りはよく判るが、堀や土塁などの明確な遺構は確認できなかった。ただ、近世に山野辺城二の丸跡に築かれた陣屋の玄関が公民館の敷地に残っており、数少ない城に関する文化財となっている。また、そこからの眺めも何気に良い。

山野辺城を見た後は山形市内へ戻り、無事に戻れることを祈りつつ神奈川への帰路に着いた。