1月28日奥羽古城散策更新2007年02月02日 01時17分09秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

今回はいわき遠征で訪れた亀岡城、上遠野城、湯本城、泉城、滝尻城、汐谷城、植田城を福島県に追加。そして、氏族データには上遠野氏を追加。

余談になりますが上遠野氏は先に載せた白河結城氏とは小山氏出身という部分で繋がってます。これにあと田島長沼氏を加えれば、奥州合戦で活躍した小山三兄弟の奥州における代表的な支族が揃います。なので、春先にでも会津田島を訪れてみたいところですが、さてこの先どうなることやら・・・。

3連休遠征・初日編(青森県)2007年02月18日 01時51分56秒

新田神社(新田城本丸跡)
2月10日~13日の3連休を利用して青森の八戸から岩手の北上にかけて旅行してきました。今回の目的は南部氏に関係する城めぐりであり、かつて昔八戸に住んでいた頃に訪れた城をもう一度訪れるのが目的でした。
(※このサイトの前身となる昔のサイトは南部氏の城めぐりからスタートしたが、途中で色々あってデータを消失してしまったため、今のサイトにはかつての地元であった八戸市や三戸郡の城が少ない。)

初日は一気に神奈川県から青森県の八戸まで移動したが、さすがに連休だけあって盛岡あたりまで混んでいて少々疲れた。八戸に着いてからはまず新井田城を目指した。ここは根城南部氏一門で最も重要な新田氏の居城であり、当然八戸に居た頃に訪れたこともあるが、今も当時とあんまり変わっておらず懐かしくてホッとした。城は新田川の右岸に接する周囲より少し高い丘陵の上にあり、丘陵の頂上に堀によって分断された本丸と外館がある。本丸は新田八幡神社と畑等になっており、本丸の周囲には帯郭が取り巻いている。本丸の東には堀を隔てて外館があり、外館の郭は現在は新田小学校となっている。城のある丘陵の周囲は住宅地になっており、本丸の下の帯郭も北側には民家が建っている。なお、以前は無かった新田城祭りなるものが今は行われてるそうなので、今後も新田城の歴史を大事にして欲しいものです。

新田城を散策した後はそのまま新井田川沿いに北上して楢館へと向かった。楢館は根城南部氏の家臣の楢館氏(楢山氏も?)の居城であり、今回訪れるのが初である。そのため、正確な場所が判らず後に大後悔する迷走をすることになってしまった・・・。まず、楢館のバス停付近から新井田川方面へと降り、川沿いにある耕地に出た。その後、岬のように突き出た丘陵の上に登り、この付近に城跡がある予定だったがどうも見つけられない。城跡には神社の社があるはずだが、付近を捜して見つかったのは墓だけである。このため、一度車道へと出て、八戸南環状道路へと向かった。どうやら楢館は八戸南環状道路の建設予定地付近にあるらしく、その工事によって遺構が破壊されるために発掘調査が行われ、皮肉にも3重堀等の貴重な遺構を発見したという。ならば八戸南環状道路に出れば楢館の位置が判ると思ったのだが、道路が途中で途切れている先は工事現場であり、さすがに中には入りにくい。そうこうしているうちに日は沈み辺りは暗くなってきたため、今回は残念ながら正確な位置を掴めないまま引き上げることにした。

予定では楢館の次は風張館に行くはずだったが、辺りが暗闇になってしまってはどうしようも無いので、今回は諦めて八戸市街へと戻り、屋台村で八戸ラーメンを食べてホテルへと向かった。

三連休遠征・二日目編(青森県→岩手県)2007年02月25日 02時19分39秒

鍛冶御門の倒壊石垣
三連休の二日目は、前日心残りだった楢館へ行こうかと悩みもしたが、やはり予定通り三戸南部氏の城跡を巡ることに決め、朝早く八戸から三戸へと移動を開始した。

まず向かったのが三戸南部氏の初期の居城で政庁とも伝わる平良ヶ崎城で、城跡は北の山地から南へ延びる丘陵の崎にあった。前回訪れた時は城跡に学校があり、校舎と校庭の間に説明板があった。だが、今回訪れてみると学校は既に無くなって、学校跡は立ち入り禁止になっていた。さすがにこれでは中に入るわけにはいかないので、今回は城の周囲と北側の堀切だけ確認して次へ移動することにした。

次に向かったのは三戸南部氏が最も長く居城とし、家臣の放火で焼失廃城となった聖寿寺城へと向かった。城の名前の由来である聖寿寺は江戸時代に南部氏が盛岡の城下町へと移したため、聖寿寺跡には現在は三光寺が建っている。この寺には南部利康霊廟などの文化財があるが、残念ながら冬季は見学できない。この三光寺の南側の台地の端が城跡であり、北側の台地とは空掘によって隔てられている。城跡は果樹園や畑になっており、空堀の上に民家があったりして一部遺構が見えなくなっているがそれでも縄張りはよく残っている。城跡の南側の崖淵に神社があり、神社の鳥居から台地へ登る部分に帯郭等があることから、ここが登城口だったのだろう。参道の傍らには真田式部大輔清鏡の墓があり、最初は誰だか判らなかったが、後で調べたところ上州に居た真田幸隆の庶子だというので少し驚いた。

聖寿寺城を散策した後は、すぐ近くにある三戸南部氏の拠点の一つの馬場館へと向かった。ここは元は鎌倉時代に北条氏の代官として赴任した横溝氏の居館であり、後に南部氏家臣の馬場吉武が居館としたことから馬場館と称したという。館跡は西の山地から東へ延びる岬のような高台にあり、ここの斜面は急崖で南側は馬渕川に面した断崖となり要害としては申し分ない。ただ、先に周った2つの城と違い縄張りがさっぱり判らなかった。一応、館跡の標柱があるが、周囲は民家と畑があるのみである。かろうじて高台から南へ抜ける道の先に見張り台のような場所があり、今はそこに神社が建っている。そしてそこから南側には地獄沢と呼ばれる谷があり、かつては土橋が架かっていたそうなので、ここらへんが城の南の虎口と思われる。

馬場館の南の地獄沢を抜けて次に向かったのは三戸南部氏家臣の川守田氏の居館である川守田館であり、ここには現在は熊野神社が建っていて、館跡の北側を国道4号線が貫通している。このせいで縄張りがわかり辛くなっていたが、神社のある郭の東側には2重堀の一部がはっきり残っておりここが城跡であるということをよく物語っていた。なお、川守田氏は火急の事態を知らせるのに三戸城へ向かって矢を撃って知らせたといい、実際館跡からは三戸の城下町を挟んで三戸城がよく見える。

川守田館を散策した後は三戸の城下町へと移動し、三戸南部氏の戦国末期の居城の一つの三戸城を目指した。この日、三戸の町では「まける日」という恒例行事をやっており、冬の寒い中にも関わらず道端に出店が並び、この地方の伝統芸能である「えんぶり」も行われていた。そんな町中を通り抜け、役場裏の三戸城大手口跡から登城を開始した。三戸城の大手物見台付近まで登ると風も雪も強くなり、綱御門付近まで来る頃には手袋を脱いだら手が動かなくなるくらい吹雪いてきてしまった。綱御門付近にはかつての石垣が崩壊しているものの良く残っており、大手口の縄張りの形状が良く判る。ただ、この倒壊石垣に続いて復元された綱御門があるのだが、こちらは石垣がブロック積み(笑)だったりと模擬建造物丸出しの造りなのでギャップが激しい。綱御門を抜けて登って行くと鳩御門跡の桝型があり、ここを抜けた先には重臣の屋敷跡の郭が何段にも続いている。ここら辺は山の上にも関わらずかなり広い平場を形成している。ちなみに石亀氏の屋敷跡だけ動物園になっていて鹿と鶏が居ます。さらに進むと欅御門跡があり、この先は糠部神社の境内になっている。さらにここの南側には温故館という模擬天守閣(資料館)があるが、冬季は閉鎖しているので残念ながら中には入れない。ここから神社の裏側に回ると土塁があり、ここが本丸へ入る大手口の大御門跡である。現在の本丸跡は駐車場と売店(観光シーズンのみ開店)があるだけだが、本丸の北側の淡路丸跡は広いイベント広場になっている。かつての城の図面と見比べるとこの淡路丸の付近はかなり郭等が削られて形が変わってしまっているようである。イベント広場の先の搦手御門跡を抜けると一段低い郭に出るが、ここには鶴池と亀池という水源と水堀を兼ねた庭園跡がある。さらに北側には奥瀬氏の屋敷跡があり、ここの展望台からは三戸の町とかつての居城のあった平良ヶ崎城方面がよく見える。なお、三戸城の巨大看板があるのもここである。奥瀬氏の屋敷跡を抜けると、あとは搦手の登城口となり、ここには三戸城の見所とも言える桝型をよく残した石垣がある。ただ、残念ながらここも以前訪れた時より倒壊が進んでおり、模擬建造物を建てるくらいなら石垣の保全をしてもらいたいものである。搦手口を降り山の麓まで降りると長閑な住宅地と畑が広がる場所に出るが、この留ヶ崎地区は譜代家臣の屋敷があった地区でもある。大手から搦手へ抜ける定番パターンで散策した後は三戸を後にして、岩手県の盛岡まで南下した。

盛岡についた頃には日が傾きかけていたが、とりあえず名物のじゃじゃ麺で腹ごしらえをして、急いで郊外にある志波城跡へと向かった。本当は南部氏繋がりで盛岡城へ行く予定だったが、ふと古代城柵の志波城にまだ訪れていないことを思い出し、せっかくなので今回は盛岡城をパスして志和城に立ち寄ることにした。

古代城柵は多賀城や秋田城などに見られるように単純な構造ながらkm単位の縄張りを誇るのが特徴でそれは判っているつもりだが、志波城跡について遥か彼方まで続く堀と城壁跡を見た時は絶句してしまった。城跡には城門と城壁が復元されているが、城壁もあまりにも長すぎるためか城門付近以外はただの植木で塁壁を表現している。志波城の南門を抜けて中に入ると大路の先にまた城門と塁壁が見える。これは北門ではなく政庁のあった内城の南門にあたる。大路を通り内城南門を抜けた先が城の中枢の政庁跡であり、建物の跡は平面復元されていた。内城はさらに東西の2つの門も復元されているが、北側だけは何も無く、畑が広がっている。実際、歴史上では志波城は北側の1/3ほどを雫石川によって削られて崩壊したために廃城となっており、北側は遺構が無いということになる。志波城を散策しているうちについに日が落ちてあたりが真っ暗になってしまったため、この日は盛岡からさらに南下して北上市で泊まることにした。